どっかいきましょうか?と誘うことなど、もう久方していない。し、これからすることなんてないんじゃないかと。さて、どっか行きますかねと思ったとしても、それは1人であるし、それがスタンダードであってベストな選択になっている。とりわけ、会いたい人がいない。特別な存在がいるとしたら、それは家族の場合でしか成り立たない。
寂しいのか淋しいのかはわからないし、不幸なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。特に何も思うことはない。出かけた先に誰かがいることを知っているから、不安がないのかもしれない。だから、誘う必要性もないのかもしれない。友達は少ない、何かを損しているのかもしれないけど、仕方ない、これをどうにかしようなんて思ったとしても時はすでに遅いのだ。
基本的にそういう関連は受動であって、能動的ではない。誘ってくれる人など片手で足りてしまいそうで、恐らく断ることがない。スケジュールさえ合えば基本的に”No”がないのだ。当然ながら、そこには酒がセットとなっているので酒を飲みにいって近況を話す程度だ。
ネクラでインドアなので、外に行ってもインドア。アクティブなことを外でしたいなんて、少しも思わない。できれば酒のんでメシ食ってたい。基本それで良いので、「どっかいく?」なんて億劫で仕方がない。人間としての付き合いができないのかもしれない。でもやっぱり、襟を正してこっから頑張ります!なんてやる訳がないし、やれるはずがない。そういう人間なので、理解してくれる人でないと付き合えないのだろう。
色々と文句言われそうなんですが、これが僕でこれを変えるのは難儀です。もう40年生きてきて、今更ムリなんですよね、根本的に。
「相手を変えることを望むなら、自分が変われ」的な言葉がありますが、意固地になって自分が変わらないという訳ではなく、アナタの望む「私」になるのはムリですよ、というお話。そもそも、僕は柔軟に対応しますから。
つまりは、理想はどこにもないってことですよ。だって、その「私」はアナタの空想上のものでしかなく、どこにもいませんから。それは私ではないのだから。