なぜ絵を観るようになったのか。そんなことを書いてみようと思う。たびたび書いているが、わたしは今でこそ絵描きだが最初はどちらかというと絵を観る側の人間だった。
絵を観る方法論は大学で学んだ。もともと歴史を勉強したくて史学科に入ったのだが、学科の中に美術史専攻があると知り、興味が出てきてそっちに行ってみた。ゼミで主に学んでいたのは、北方ルネサンス〜17世紀オランダの風景画だった。レンブラントとかフェルメールやブリューゲルあたりが画家では有名だと思う。ちなみにわたしが好きなのは19世紀末ごろの寓意画や風景画だが、オランダ絵画の影響はおそらく色濃い(と思っている)。
大学で主に学んだのは、情報伝達メディアとしての絵画の読み解き方だった。その昔、絵画は作家個人が芸術表現をするためのものではなかった。テレビもラジオも写真もないころ、絵画は思想や情報をビジュアルで伝達するためのメディアとして機能していた。
宗教画って何のためにあるのか、何を伝えようとしてるのか、っていうのは↑の記事を読むとわかると思う。
宗教絵画には「アトリビュート」という概念がある。絵画に描かれてる人物が誰なのかわからないとき、身につけている物からその人が誰なのかを特定したりする。例えば大天使ミカエルだったら、背中に羽根があって甲冑を着ていて剣を持っている。ちなみにミカエルとよく混同されがちなのが聖ゲオルギウスで、この人も甲冑を着ている。羽根があったらミカエルで、なかったら聖ゲオルギウス、みたいな見分け方だった気がする。
ちなみにこの時代、絵画にはだいたいタイトルはつけられてない。だから初見で誰を描いたのか何の情景なのかがわからないことが多くて、こうやってアトリビュートで見分けながらまず誰を描いた絵なのかを特定する。絵を隅々まで見渡しながら解読の鍵になるアイテムをみつけてちまちまと謎を解いていくみたいな、芸術鑑賞というよりは本当に地道な分析って感じだった。なんだろう…ゼルダの伝説の祠とかコログ探しみたいな…?
そんなことをしていた一方で、わたしはこの時期に詩作にのめりこんでおり、分析と表現を両方やっていた。両方やっているゆえ、絵の鑑賞方法が時折わからなくなりそうになった瞬間がある。
でも学問していたのはあくまでもセオリーに沿ったメッセージの読み解き方であって、自分がその絵を観て何をどう感じたかは、正解とはまた別のところにおいといてもいいんじゃないかな、と徐々に考えるようになった。
また、その頃は詩作を通してオンラインで知り合った友達とよく待ち合わせて美術館めぐりをしていた。一通り鑑賞したあとにみんなでお茶をしながら、印象に残った作品についてあれこれ話しあったりしていた。みんな自分で書いてはいたんだけどそれ以上に何かを鑑賞するのが好きで、映画やアニメや音楽とかそれぞれいろんな作品の世界に浸っていたなと思い出す。
思えばわたしは絵が好きで好きでずっと観ていたい!みたいな強い動機から鑑賞体験が始まったわけではなくて、鑑賞の仕方とか機会を与えられて形から入っていってだんだん自分の動機が後からついてきたタイプだなと思う。でもその過程で芸術作品に触れて心がめちゃくちゃに揺さぶられる体験が何度もあったりしたわけで、その体験や気持ちは自分にとって本当に大切なものである。
それと、自分で絵を描くようになってから、筆致や色使いそのものが作品のメッセージになりうることを体感した。これは自分の身体で実践してみることで初めて得られた視点だった。もし最初から絵を描く立場として美術の研究をしてたらもっと違う見方をしていたんだろうか。絵の具のことや筆致について当時全くわかってなかった記憶ばかりある。
観て分析する側、詩を書く側、絵を描く側、いろんな立場を体験してきているなあとしみじみ思う。いまは絵を描いたり他人の絵を観たりしているけどそれも今度変わっていくんだろうか。でもやっぱり誰かの作品に触れて感動する体験は何物にも変え難いのでこれからもやっていくだろう。詩作をやめたころはそういう部分に楽しみを強く見出してしまってずっとただアイドルを観て感動して毎日写真や動画を漁っては呻いているだけのオタクになっていた。そう考えるといまはアイドルを観てバンドを観てゲームもやって絵を描いて長文日記も書いてオタク活動全部乗せみたいな毎日だな…。毎日楽しいのは良いことだなと思っています。おわり
追記
これは補足なんだけど、批評と表現どっちにも足を踏み入れてみると、双方の断絶というか歩み寄れなさみたいなのを感じて何とも言えない気持ちになることがある。表現者は批評家のことを外から勝手にジャッジしてきて怖いとか鬱陶しいと思ってるし、批評家は表現者のことを扱うのがめんどくさい気難しいって思っている…感じがする。
以前、小林賢太郎と椎名林檎が対談でなんか批評家に対して感じるフラストレーションみたいな話をしてたことがあって、あーなんかすごいこれわかるなっていう強い共感の気持ちを抱いた。それと同時に、もっとこう表現者に嫌われないような、相手と作品に敬意を払いながらお互いを高めあえるような批評のあり方って模索できないのかなって考えてしまったことがある。難しいとは思うけどそういう対話の可能性についてよく考える。