久しぶりに訪ねた美術館は、案外悪くなかった。企画展こそ好みの内容ではなかったが、ここの常設展はお気に入りがある。高級なランチを食べた後にせっかくだから、と足を伸ばして良かった。
ランチはといえば、一万円強の値段に違わず美味かったが、店員の態度が良くなかったように感じる。まあ、もう過ぎたことだしいいけれど。いや、何か言った方が彼や店にとっては改善点を見つけることが出来て良かったかもしれない。そこまでやる義理もないか。もう行く事はない訳だし。
昼食と腹ごなしを終えて、目指すビルは3駅先。たまたま見つけたオートロックじゃない、廃ビルのような見た目の7階建て。
駅の前で道が重なりそうになり、カップルとお見合いしかけてしまった。まだ距離があったのに早いうちから揃って会釈して足早に立ち去っていった。いい人たちなんだろうな。あそこまで気心知れた仲になったことはあっただろうか。頭の中で「元カノ 親密」で検索してみるが、一件もヒットしなかった。
駅に入る前に伸びをする。最後に乗る電車は特に思い入れもなければ、何の感情も湧かない。行き先を渡すだけの代物。本来の電車の使い方そのままだ。地元の一時間に二本しかない電車だったら、何かしらの感情が出てきただろう。そう思えば後腐れなくて良かったかもしれない。
平日の昼間、電車の人はまばらだった。三駅とはいえ、せっかくなので座ることにする。隣では外国人男性が大きなリュックを抱えてしきりに何かを調べていた。
都心の3駅なんてすぐだな。ウトウトもできずに立ち上がり、電車を降りると突然肩を叩かれた。振り返るとさっきまでスマホに夢中だった外国人だった。
「これ、おとしました ヨ」
カタコトの日本語で差し出したのはハンカチ。ポケットに入れっぱなしになっていてシワクチャのそれは、確かに俺の物だった。
「あ、ありがとう ございます!」
つられてこちらも、カタコト気味になってしまう。眩しい笑顔を俺に向けて、まだ停まったままだった電車にギリギリで飛び乗って去っていった。
ハンカチを握りしめる。彼は俺のために、乗り過ごしかねないのにわざわざ降りて届けてくれた。こんなにクシャクシャで、どこで買ったかも覚えていないような安いハンカチに、見合わないような付加価値がついてしまった。
この親切に見合う価値が俺にはあるんだろうか。
廃ビルには十五分程歩いてついた。ボロボロな見た目の通りセキュリティは緩く、簡単に入ることができた。非常階段を登って最上階を目指そう。
カンカン、カン
古い建物だからか?異常に足音が鳴っている。金属製の甲高い音がリズム良く鳴ると、何かが刺激されるのか、頭の中で昨日の罵倒が蘇った。
「こんなこともできないのか。」
「今まで何やってたんだ。」
「何度教えたら分かるんだ。」
この辺りの言われ慣れた言葉は、どうやったって頭の中を駆け巡る。それらに伴って出てくる頭痛は薬では抑えられない。せっかく食べた美味い物を押し返すかのように胃が痛み出す。思い出すのをやめろ。心は決まったんだから。
三階の踊り場で止まって、呼吸を整える。
自宅の鍵は癖で閉めてきてしまったけれど、大家さんがいるから開けるのは簡単だろう。さっき拾ってもらったハンカチを入れたポケットとは反対側のポケットを触る。うん、免許証はちゃんと持った。これで遺体がグチャグチャでも、身元は分かるはずだ。
カン、カン、カン
やけに足音が響くのが気になってきた。五階の踊り場で止まってみる。音が止む。どこからか鳴っているものではなく、確実に自分の足元から鳴っているものだった。
カン、、カン、、カン
6階に着く。よく聞いてみれば、音は右足から鳴っている。
7階、屋上と順番に着く。屋上は閉じられているけれど、横の階段からでもこの高さなら十分だろう。ここは人通りも少なくて心配いらないかもしれないが、誰かを巻き込むことだけは避けなければ。投身自殺する者の最後のマナーだ。
飛び降りる、その前に、靴の裏を見よう。足音が気になったおかげかせいかは何とも言えないけれど、死ぬ直前だってのにロクな思い出も出てこなかった。石か何かが挟まっているんだろう。
靴の裏を見て拍子抜けした。靴の裏にはなんと画鋲が刺さっていたのだ。
「は、ははは、ははは!!!」
気が抜けて不思議なほど笑えてきた。靴の裏に画鋲だなんて小学生以来か?あの頃とは違って土足の靴だ。室内で踏んだ訳じゃないだろう。美術館では鳴ってなかったから、その後か?
外に画鋲が落ちていることも、あるもんなんだな。
笑って力が抜けてその場にへたり込むと、尻ポケットからスマホがこぼれ落ちた。ロック画面には、狙ったかのように小学校時代の友人からメッセージが来ていた。
『まだ仕事中?』
『急遽東京来てるんだけど飯でも行こうや』
滅多にない小学校の思い出が引っ張り出されることが、どうにもおかしくて座ってしばらく笑った。
なんだ俺、全然笑えんじゃん。こいつが来るのに死ぬのは勿体ねえな。死ぬのなんていつでもできるし、仕事だってこの世にひとつじゃない。飯の時に画鋲が刺さってた話でもしてやろう。
カン、、カン、、カン、、
高い足音を響かせながら、非常階段を降りていった。