文筆を生業にし始めて約1年になるが、どうやら私にとって最も気負わない文字数が1000字である。旧Twitter(Xと呼ぶのは未だに好きではない)を基準にすると、目いっぱい打ち込んで約7ツイート。だいたいそのくらい書くと飽きる。ツリーでぶら下がっていると冗長に感じる文章量である。
2024年現在、主たる仕事としてフリーマガジンの取材記者をやっている(カメラマンも兼ねているのだがその話はまたいずれ)。一記事見開きで1000字。これが実に苦しむのだ。なぜなら、自分のうちからこぼれ出る言葉ではなく、他者の情報を叙述しなければならない。今まで書きたいままに書いてきたエッセイもどきとはまるで趣が異なるので、考え方をまるきり変える必要があった。パズルだと思ったら楽になったのである。
200字×5段落。最初と最後のパラグラフは要約だ。角度を変えて二度「つかむ」文章を捻り出す。ここが一番の腕の見せ所で、あとの3段落はデータ的な情報と関係者の声、起こっている事実の具体的な説明。概ねこれらを臨機応変に組み立てることを頭の中でシステマチックにできるようになってから、いくぶん心の荷が軽くなった。
昔から様々な文章を書いてきた。文字を読むのも好きだった。きっと文字から離れては生きていけない。
思春期の頃、壁越しに両親の罵声を聞きながらワープロを開き、涙でキーを叩きつけた。詩、と呼べば耳ざわりのよい叫びたちは、家移りを繰り返すたびに連れてきては押し入れの奥に仕舞い込んでいる。蓋を開けずとも鮮明に思い出せる胸の痛み。幼い心から必死で吐き捨てた膿を捨てられる日はいつか来るだろうか。
書いていいんだ、と思った。それが私の原風景だ。痛みをかたちにすれば、それは芸術になる。墨で描き殴っただけのキャンバスを尊く思う人がいるように、まるで歌うように言葉にしてしまえば、誰も傷つけずにまっくろなヘドロを美しいものにすることができる。
Chat GPTに「夏・向日葵・兄弟の3語を使って1000字で小説を書いてください」と頼んでみた。わずか1分ほどで情緒的な物語が目の前にあらわれた。いずれAIが文筆家を駆逐する時代が来るだろう。上手な文章は人工知能がいくらでも書けばいい。だってそれはパズルだから。
人の心はデータ化できない。私の心は私にしか書くことができない。ここまで書くのに約30分。それでも、私は私にしか書けない声を歌い続ける。
[了.]