先日、義父から夫へ「もう連絡を寄越すな」という趣旨のメッセージが届いた。「今後折り合えることはないから、関わらない」と伝えたいようだ。
結婚を機に、二人で松本に暮らしはじめた。義両親をはじめ、夫の親族はみな関西にいる。そんな塩梅でよく思われるはずもなく、入籍前からチクチクしたものは漂っていた。
夫は三兄弟の長男である。母から溺愛されている。旧くから血筋の続く実家は一次産業を営んでいて、祖父なき後は長男である父が工場を継いで切り盛りしている。まだまだご健在な祖母からはもちろん後継を望まれている。立派な「長男様」ながら、夫は12歳で家を出て中高一貫の寮生活で多感な時期を過ごしてきた。
翻って私は、抑圧された長女である。弟が一人いて、彼は女系の我が家にとって百年振りの男子らしい。物心つく前から姉として、あるいは気性難な母の機嫌の受け皿として自律を余儀なくされた。「あんたは嫁に行く身」と刷り込まれたおかげで教養も身についたが、家を出たが最後「もう帰る場所ではない」と覚悟した。
夫は家族に愛されてきた人間だ。両親をはじめ祖父母や親戚からも大切にされ、生まれたときから「お家」にとって無くてはならないピースで、大事な後取りだった。ところが思春期前に外へ出て、自立していよいよ親元へ帰るかと思ったら、得体の知れない年増女(しかもバツが一つついている)に惚れて、見知らぬ田舎で暮らしはじめてしまった。これが恨まずにいられようか。
さて、妻である私はいま、生まれて初めて実母との仲が良い。年を重ね、時を重ね、絶対君主だった母が普通の人間であるのを知り、ようやく恋しがることができた。呪いのような「産みの親との軋轢」から解放され、気儘に実家を訪れては肩の力を抜く日々だ。
だからこそ苦しい。産みの親に代わりはいない。どんなに私を嫌いでも、夫の親はその人たちだけだ。私の生きやすさと引き換えに、夫にその呪いを背負わせていいのだろうか、と。
配偶者は選べるのだ。もっと器量が良ければ。歳下だったら。初婚だったら。松本に来なければ。「ごめんね」と零してしまう私に夫は言う。「誰だろうと、どうせ同じことや」。
だからこそ思う。私はこの人を幸せにする義務がある。この人を育ててくれた人たちに感謝を伝えることはできない。なら、せめて私を選んだことを後悔させてはいけない。
それだけは深く胸に刻んで、これからも手を取り合って暮らしていく。
[了.]