読書家の男性が好きである。恋人(人間の、だ)を選ぶとき、昔から譲れない条件の一つだった。
私自身を読書家だと思ったことはない。ただ、思い返せば子供の頃から読書が好きだった。それも名作長編ではなく短編ばかり、マイナーであればあるほど好んできたように思う。
小学生の頃「とうげの旗」という児童向け文学誌を夢中で読み耽っていた。芥川龍之介をつまみ食いし、星新一をまるっと読破した。ハリー・ポッターは途中で投げ出してしまった。ミヒャエル・エンデには手をつけず、村上春樹は読んだことがない。
記憶にある本の中で一番古いのは、実家の本棚にあった「日本昔ばなし」だ。まだ漢字も習っていない頃だった。漫画雑誌と見紛うほど分厚い一冊を両手で抱え、ざらつくページを開いて米粒のような文字を追いかける。せいぜい見開き2枚で物語は完結した。「かっこうになった娘」「泣いた赤鬼」「雉も鳴かずば撃たれまい」。子供向けの寓話たちは、30歳を越えてなお私の中に教養として息づいている。
頭がよくて癖の強い男性が好きである。「賢い人が好き」と有り体に言うが、それは一体どういうことなのか。偏差値が70あればいいのかというと、そうではない。おそらく私は「自分の中にある本を語れる人」が好きなのだ。書物を読んで感銘を受け、それを蓄積している人。そういう人の持つ言葉の力はたくましくて、まだ見ぬ世界の扉を力強く開いてくれる。
19歳の頃に付き合っていた恋人はたいそうな本好きだった。所作が美しくて色気の漂う人だった。彼が私に勧めた著者が山田詠美である。それまでエッセイかライトミステリーばかり読んできた私は衝撃を受けた。墨で刷った文字を並べるだけで、こんなにも官能的に色を出すことができるなんて、と。
その時からだ。恋人に恋をするように、私は彼らが読む本に恋をしてしまう。この人をつくってきたのは、こういう言葉で、こういう温度。ああ、なんていとおしいんだろう。読書という行為は時に官能的だ。身体に触れるのと同じように、その人の脳の中にそっと触れている。
この人を知りたい、と思った時、私はこう尋ねる。「好きな本ってありますか?」。そこには彼の全てが、いや、彼をつくる根源的なものが記されているように思う。言葉では表せない、けれど文字を読むことでしか見えない「人間」の源泉。その匂いがしっとりと滲み出して、あたたかなインクに息づいているような気がするのだ。
[了.]
※このエッセイはつじー氏、スノウ氏と共同し「同じタイトルでエッセイを書こう」という執筆企画です。お二人の文章はそれぞれのSNSアカウントより読むことができます。