服がない、と思うことがよくある。
持っていないわけではない。むしろ持ちすぎているくらい大量の衣類が、クロゼットに収まりきらず溢れている。
3年前に引っ越して、服を半分以上処分した。ひと抱えもあるズタ袋に衣類を詰め込んで買取ショップに持っていった。売れないものは泣く泣く指定ゴミ袋へ詰め、パンパンになったそれらを運ぶのに2往復ほど歩いた気がする。
我ながら自慢できるほどスタイルがよかったところを病に臥せり、体重が10kg以上増えたのも処分に拍車をかけた。着られなくなった服を捨てるのは、美しかった自分との訣別のようでつらかった。でもしょうがない、もう頑張らないし。これからはあんまり持たないようにしよう。
なんて思ったにもかかわらず、通年履けるボトムスだけで既に10着以上ある。驚くべきことに全部スタメンなのだ。さらにパーカーだけで5着以上、夫と着まわしているものを足せばもっと増える。ブラウスや薄手のTシャツなどはもはや数えたくない。
これでも吟味して服を買っている。衝動買いは極力せず、一着買うごとに一着処分する自分ルールも設けた。なのに、何故だろう。買っても買っても「服がない」現象がおさまらない。
昔の話だが、LGBTQの友人が言っていた。「性別は定まっていなくて、スイッチみたいな感じ。朝起きて『今日はこっちか〜』と思ったり、出かけていて突然切り替わったり。男子トイレに余裕で入れる日もあれば、絶対に無理な日もある」。
なるほど、私の「服がない」はこの感覚に近いかもしれない。「今日のわたし」にしっくり来る服でないと、心と身体がちぐはぐになる感じ。その「今日のわたし」を持っていればいいのだが、持っていない場合は「近いもの」で代用することになって、これが実に座りが悪いことがあるのだ。
私は女のからだが気に入っている。かつて見栄えよく整えた肉づきも、今のだらしない柔らかさも、どちらも私自身で「まあ悪くない」と思っている。
もし、自分のからだに納得していなかったら。服は選べても身体を着替えることはできない。
それはさぞかし座りが悪いことだろう、なんて、思いを馳せつつ今日も衣装を選ぶ。「選択肢がある」というのは幸せなんだってことを噛み締め、「スイッチひとつで男性のからだになれたらいいのに」なんて空想してみる。
それはそれで「今日のわたし」の選択肢が増えて、クロゼットがいよいよ大変なことになる気がするけれど。
[了.]