一年ぶりに順正と渋谷のシーシャ屋で再開した。
全身真っ赤な服で現れた彼は、はみ出しものが集まる町この街において、むしろ溶け込んでいた。
1年前の彼と東京駅の地下の焼肉屋で一緒にランチしたときは、人生の炉等に迷い、七輪の炭火の如く、窮屈な場所で、静かに燃えているように見えた。
だが晴天の今日、彼の顔はどこか凛々しく、良い男になっていた。一目で話さずとも彼の瞳から、彼の見える憧憬が分かった。それほどまでに彼は生に満ち溢れていた。
闘病生活を終えた自分だから視えた。自分の道を見つけたと。彼もまた自分の信念の輪郭を捉えたのだと。
順正と自分は5歳も離れていて、人生の途中式は大きく異なるが、驚くべきほどに人生の解が一緒だ。
お互い大切な人に出会って人生観を変えられたことや、お互い積極的に貧しい生活を経験して、無駄にお金を稼ぐ必要性がないし、お金を使う必要ないよねという結論に至ったことや。ヴィパサナー瞑想最高だよねとか。
そして直近のお互いのテーマが、資本主義経済の中でも、色のついたお金を稼ぎたいし、色のついたお金を使って行きたいよね。ということ。
具体的に僕は、地元の野菜の直売所に行って野菜を買ったり、コーヒー豆もお気に入りの地元のロースターから仕入れることにしている。
フェアトレードの文脈とは少しズレていて、トレーサビリティのある、文脈が濃い消費・生産が僕らは好きなのだ。
彼はこういう。俺は真っ赤に染まったお金を渡したい。
では僕のお金の色はなんだろうか?一つのキーワードとしてあるのが、"偶然性を愛する"ということだ。
シーシャは、順正と話で夢中になって溶ける時間とは対照的に、とても長持ちして最後まで楽しめた。そこで店員さんに理由を聞くと、「普段自分が苦手なバニラフレーバーだけど、長持ちするように工夫して良い感じに調整した」と。
店員さんは誇らしくも笑顔で解説してくれた。
僕はこの答えあわせを含めて、3000円のシーシャがとても価値のあるものだと思えた。
シーシャのフレーバーを沢山混ぜて、一つの美味しい香りに辿り着くように。様々な色が混ざった唯一無二の色を自分は作って行きたいし、そんな複雑性や偶然性を愛して行きたいと思った。
一年ぶりにたけのこ荘の全員と一度に顔を合わせた。
昔はしょうもない話ばかりしていたが、全員が独立して月日が経った今日は意識高い話が多かった。
僕が政治と歴史に興味があるという文脈で、
「年配のイケてる経営者の話を聞くに、会社を次のステージに行くには、教養が必要ですよね」と松井は言った。
そして僕らの総意はこうだった。
人間は必要だと思った時にしか必要なものを吸収できない。だけど、逆説的には、そう学ぶことに焦る必要はないのだと。
僕はこう言及した。
「それでも、必要なものを必要なものと、メタ認知できることは難しい。」
そしてひではこういう
「だから、こうやってみんなで話しながら呑む、この場が必要なんだと。」
今日は、気さくな店員さんから進められた、苦手だったはずのきくらげの刺身をゆっくり噛み締めた。