最近は家で仕事ができなくなり(集中がすぐ切れるし、夜寝ずらい)、荻窪のコワーキングによく行っている。
電車に乗ると人がいるし、コワーキングにいると人が働いていることで、自分自身のリズム感も整っていく。自分という存在もまた、場に支えられていると知る。
電車でコワーキングに向かっていると、腕を包帯でぐるぐる巻きの年老いた女性が歩きながら、「どけっ!」と言いつつ、女子高生を手ではけて進んでいるのを見た。
僕と周りの人は少し驚いていた。その女子高生は、たぶん無表情で気にせずすーっと歩いて行った。
映画「すずめの戸締り」にて、ある登場人物が主人公に思ってもないことをつい言ってしまい、言った瞬間に「私なんてこといってしまったの...」と絶望するシーンがある。
しかし、それを言ったからこそ本音を出し切ったからこそ、その人の何かの荷が降りて、言われた主人公も「大丈夫だよ。わかっているよ」と伝えるのだ。結果、和解が生まれ、しなきゃいけないと思っていたこと、役割が脱ぎ捨てられる。
僕らは普段、相手にこう思ってはいけないということを抱え込む。それが抑圧になり、逆にそれは他者に投影され、やってはいけないことをやっている相手に怒りやモヤモヤを感じるのだ。
一方で、今回の年配の女性は、怒りに取り憑かれていたように見えた。その怒りはまるで、何かを守るように、世界に対して怒っているようだった。
どうしたら、その怒りは解き放たれるのだろう。怒りを出し切った時に、もしかしたら何かが解放されるのだろうか?