なぜか生きずらいこの世界で

mimizunomizuno
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実家に帰省して、兄と少し喋った。兄は今年大学院に入り直し、ASDやADHDについて学び直しをしている。

ゲシュタルト療法を来年学ぶとFacebookにポストしたら、そんなに真剣なんだったら大学院で学んでみたら?兄としては少し心配だな...と以前メッセージ上で言われて、すごく自分の中で悩んで、チームコーチングの2者関係でも扱った。

ずっと生きがいはサッカーだった。サッカーが得意だったから、自分に自信が持てたし、サッカーを通して自己表現をしていた。それがなくなり、情熱を注げるものを探しつづ、デザイナーになり、コーチになった。

大学は経済学部なのに、スタートアップをやったり、デザインをやったり、今はコーチングというふわっとしているものをしている。そしてフリーランスになった。

家族にどういう感じで働いているの?とご飯の場で聞かれ、いろいろ答えるも世界が違いすぎてちょっとわからないと言われた。もうなんか、説明するのも疲れたわ。

兄といろいろ話していると、どうやら人と感覚が違うという点については兄も同じで、すぐがそういうふうに思ってたと知って、よかったわ。と言われた。

教会で生まれ育ち、小さい頃から父が説教をしているのを一番後ろから見ていて、あぁこうしたらいいのにな〜とずっと思ったりしていた。それは今も同じで、何かの場を作っている人を見ると、こうしたらいいのに〜と思っていた。

自分なりのこだわりがあるのである。

どうやら兄も同じで、でも教育の現場では中々変えられない鬱陶しさがあるらしい。それでも何かを変えようとする姿勢や、極めたいという感情は共通していると兄は知ってうれしかったらしい。

そして、アカデミックで学んでいるうちに、世界はどんどん変わっていくのだから、今はそのフェーズではない。でも尊敬できる人が見つかったり、海外の大学院とかはチャンスがあれば学んでみたいと言ったら、いいねと言ってくれた。対話できてよかった。

今までそう思うだけで、でも自分が産んでいる場ではないから、ただの批判者であった。そろそろ、もう自分が生み出す側に回らなければならないのかもしれない。

人と違う感覚があるということで、いつの頃からか、世界に馴染もうとしていた。受け入れてもらえる環境を探すようになっていた。コミュニケーションがめんどくさい。いや、誰とでも仲良くなりたい。でもそうできない自分がいたり、納得できない自分がいるのに周りに迎合しようとする乖離に、嫌気がさす。

いい人であろうとすることが、いつの日か、周りに受け入れられるための手段になっていたのかな?

それもまた、自分という自己の一面なのだろう。

周りに溶けこうもうとして違和感を抱えたり、自分を偽って何かを変えようとするより、自分の信念や誠実さや、自分なりの愛の感覚につながって人と接した方が、楽な気がしてきた。

相手に合わせるより、自分の感覚に正直になって、相手に接するのが本当の愛なのかもしれない。だぶんきっと。

今年は実験の年であり、準備の年だった。たくさんのことにチャレンジした。いろんなことも学んだ。体調についてもまだまだ改善の余地がある。相変わらず聴覚過敏は治らない。

それはきっと、自分の感覚を偽ってはいけないというサインなのかもしれない。

来年は覚醒(Awaken)の年にする。あ、今日はメリークリスマス。

@sugu
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