ワーケーションをするたびに思うが、ワーク、いらない。ケーションだけで十分。
今日はずっと食べている。いや、日曜からずっと食べている。ずっと。
そういえば行きの飛行機で「無人島のふたり: 120日以上生きなくちゃ日記/山本文緒」を読んだ。
実家の食卓の近くに山本文緒の「絶対泣かない」がおいてあって、ご飯食べるのに飽きるたびに繰り返し読んでいた。その割に話は全然覚えてないけど、本エッセイを読んで、文体が体に染み込んでいることを感じたし、山本文緒の書く文は好きだな、と思った。
膵臓がんステージ4で余命数ヶ月宣言された著者の緩和ケアエッセイ。テーマがテーマだし、やっぱりどうしても胸が詰まってしまう。なんだかずっと目が熱かった。
日によって変わる体調、気分がとてもリアルで、リアルさがうまいなと思った。どうしても深刻だが、軽やかさもあって、そうだよなぁと思った。幸せなこともあるし、冷静になることもある。うまく死ねますように、の願いが苦しい。あと、夫がグラタン落として泣くところも、あまりに悲しかった。
読みながら、山本文緒はもうこの世にいないのも、不思議な気持ちになった。山本文緒は死んだけど、私と山本文緒の関係はあまり変わっていない。新作はもう読めないけど、そもそも山本文緒を熱心に読んでいたわけではない。前述の「絶対泣かない」と「みんないってしまう」を読んだことがあるくらい。なんなら、このエッセイを読んで近づいたともいえる。さらに近づくと寂しくなるかな。
私はちびまる子ちゃんを愛読していて、かつてはエピソード聞けば巻数を言えるくらい読み込んでいたし、さくらももこのエッセイも一時期まではほぼ全部読んでいた。でも、さくらももこが亡くなったとき、そこまで悲しくなかった。その時点でもう長らく彼女の著作を読んでおらず、亡くなっても関係が変わらないと感じたからだと思う。すでに私の中のさくらももこは死んでいたとも言えるし、生き続けるとも言えるかもしれない。うーん、でも、やっぱり、関係性を更新し続けることが生きているってことなのかも。
幸いにも身内がまだあまり亡くなっておらず、大人になってから身近な人の死を経験したことがあまりない。だから、周りの人が死ぬってどんな感じなのかなってぼーっと考える。山本文緒は本エッセイ内で、「自分は見送る方だと思っていた」と書いていた。そうだよなぁと思う。私も、見送る方だと思っている。そう思わないと生きていけないじゃん?
このエッセイを読んで思ったのはそんなところで、たとえば、いつ死んでも後悔しないようにやりたいことをやらなきゃ!とか、そんなことは思わなかった。後悔しないようにやりたいことをやりきるなんて可能なんだろうか?というか、やりたいことをやれば、後悔はしないのか?話は違うんだけど、私は、「推しは推せる時に推せ」っていう言説が嫌いだ。なんか、そういうことなのか?と思う。推せる時に、ってなんだろ。そこまでしてやらなきゃいけないやりたいことってなんだろ。将来後悔しないために、今を犠牲するのか?生きるのは非効率だ。常に最大効果を狙って生きるのは、目的と手段が逆転するように思う。全然重みは違うんだけど、山本文緒が死ぬまでの機微を残してくれたおかげで、そんなことまで思いを馳せた。
とりあえず「自転しながら公転する」は読もう〜
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相変わらずハイキュー読んでる。
みなさんチョコは食べましたか?チョコエピ送ってください〜
gained.the.sun@ジーメール まで!