昔から薄らぼんやりと死にたいなあという気持ちは傍にいて、それはどちらかと言うとすべてを放り出して終わりにしたい、という感情だった。現状を脱せられるなら死である必要はないのだけれど、説明もせず楽に終わりそうなのは、それだけだった。これを希死念慮と呼ぶと、大人になるまで知らなかった。
健康な身体で死を選ぼうとすると、おそらく痛くて苦しい。一瞬なら良い、けれど一生続くとしたら?踏ん切りがつかない理由はそこだった。逆に言えば、今の段階では絶対にクリアできない問題だから、しばらく死なないと思う。
学生の頃は葬式代について考えていた。最後まで高い金出させるのもなあ、と。大人になったいまも、絶賛貯金を食い潰している。けれどまあ、焼いて海に撒いてくれたらうれしい。できれば温かくて綺麗なところ。
死ぬ前にきちんと身辺整理をするひとも居るそうだが、きっとわたしは生活感そのままで自分だけが消えるのだろう。ここの片付けさせられるの可哀想だなあと他人事のように思う。ぜんぶ捨ててください。欲しいものは持って行ってください。
病気と戦うひと、生死を自分で決められない国、たくさんあることも知っている。生きたいと思うひとに寿命を渡せたら良いのに。いらないものは、譲ってもいいでしょう。
なんだか遺書めいてしまった。まだ死なない。