1回目は仕事の話が主だったので、今回は幼少期を中心に話をした。どんな子どもだったか、を思い出していく。玄関に置いた習字セットをそのまま忘れたり、忘れ物を取りに帰らされたり。よくありすぎて覚えていなかった記憶がぽろぽろ出てくる。ADHDを疑っていることは伝えていて、CAARSという心理検査も受けた。結果はもう少し先になりそう。
他の人が普通にできていることが、わたしにはできない、と溢すと、普通ってなんですかね?と聞かれた。わたしも"普通"が明確には言葉にできない固定観念だと知っている。けれどやっぱり、わたしにできることはなく、他の人より劣っているという感覚が抜けない。人間になれないんです、と言ったら、流石に困らせるだろうか。
自分の中で、これはできる!という感覚が薄いことについて、わたしの中では、"母親が先回りしてなんでもやっていたから"だと思っている。わたしは不器用で鈍臭い子どもで、母は「もー!」とぷりぷり怒りながら、わたしの作業を変わってくれた。できない子、だから面倒を見る、だったように感じている。けれども、この感覚はカウンセラーさんにあまり伝わらなかったように思う。親ってそういうものですよね、と言われてしまうと、何も返せなかった。
できる、できないの拘りは、褒められるかどうかの基準なのだろうか。手放しで褒められた記憶があまりない。調子に乗らないように、ってことだったのだろうな。気がついた時には承認欲求のかたまりだ。どうしようねこれ。
カウンセリングですら、明るく良い子に話してしまう。ぱっと見あまり困っているように見えないのが悩み。カウンセラーさんがメモを取る時間を少し待ったり、大きめの声で笑ったりしてしまう。そういう処世術が染み付いている。けれど取り敢えずは続けていきたい。お金を払ってでも、話を聞いてもらえるのが嬉しいので。