お日記

sushi_or_udon
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2024.03.09(sat)

起きるとくっと空が明るくなっているのがわかる。日当たりがいいといい気持ちになるのを知ったのはこの部屋に越してきてからだった。

少し布団の中でまどろんだら起きて立ち上がる。しらすが余っているのでしらすマヨチーズトーストを食べる。お供はミルクティー。気分がいい。

こうやってたっぷりとした時間の中、自分が欲しいものを取り込むことはわたしの人生における幸福なんだな〜なんて考えていた。最近の鬱屈した気持ちもそうだし、得意なことや気持ちがいいことを考えた結果、ふとこれに辿り着いた。

取り込んで吐き出してを繰り返して循環させていくことが好きだ。自分の中で煮詰めていくのはどうにも向いていない。それは以前から気づいていたが改めて感じる。

食べることもそうで、食べたいものをぐあっと取り込み味わって理解して血肉にする。だから逆に自虐的になると過食するのかもしれないし、どうでもいい情報を流し見したりするのかもしれない。自分の血肉にしたいものを選ばなきゃなあと思った。

先日購入したデュアルキャリア・カップルを読みながらわかるなあ、と思いながら読み進める。恋人もわかるなあと思ってくれるのだろうか。

今のわたしたちは本著内でいうところの"ハネムーン期間"であり、"制約の無い人材"である。わたしたちが現状楽しめている自由さや持ち寄れている寛容さというのは、20代であるわたしたちの住む場所や子供や親の介護などの自身を制約する要素がない故の自由と寛容さである、と書かれている。

本当にそうだと思う。自分が元々持っている財産から気分が向いたら切り出すやさしさ、という感じがする。でもこれから一緒に人生を歩んでいく上で「気分が向いたときだけ与えられる優しさってどうなんだ?」と感じていた。

また、この部分もどきりとする。「こうした若い人々の制約のなさやキャリアへの熱意を利用するかのように、このステージにいる人々に対して、企業や上司は能力を発揮できる機会を仕切に提示してくる。」

上記は最近の心配事であった。さも自己責任のように言われるキャリアアップだが、今後も自己責任だけで済むとは思えなかった。それをわたしが知っているのは、生まれながらにして与えられた属性と生まれがあるからだった。

彼が勤めているのは超大手の日系メーカーなのだが、わたしは彼らのやりがいや生産性の達成とは、下敷きになる家人がいることが前提にあるのではないか?という疑念があった。

引越しに伴う手当の申請の途中、それを何度も感じたし、ううんそれ以外にも節々から感じるのだ。上手く言語化はできないのだが。

彼自身はその役割をわたしに望んでいるわけではない。でも会社は?上司や?社会は?それに彼は気づいているのだろうか。自分たちがそれを選ばなくても環境が勝手にそう決めてそう導くことがあることを知っているだろうか。

わかりやすい男らしさやマッチョイズムは否定されるが、それらによって構築された社会構造がある。男性だけのコミュニティらしさをひとつ語るとするならそれは自由さだと思う。じゃあ自由にできる理由って一体?

鳥飼茜の「先生の白い嘘」の第一話の冒頭でも語られていた。「人間を2つに分けたとして、必ず どちらかが少しだけ取り分が多い と私は感じている、敏捷と緩慢と、おおらかと神経質と、お金持ちと中流以下と、積極的と消極的と、「ふたえまぶた」と「ひとえまぶた」と、男と女と」

社会が設けたなんとなくの偏りは、自然に生きようとしても偏ることを表している。

だから理解して意識的に歩いていくしかない。やることやるでは済まされない。自分も相手も社会構造も異なる価値観も変わっていく人生も。そうじゃないと無意識のうちに"それ"に飲み込まれてしまう。自分だけの話じゃないのだ社会とは、家庭とは、互いとは。

もう少し読み進めたかったが、やる作業があったので中断した。

今日は夜から恋人が我が家に来る。彼がこの家に泊まりに来るのはこれで最後になる。最初に泊まりに来たのは交際して1ヶ月目あたりで、彼は会社の寮住まいでなかなか人を呼べる環境じゃなかったし、多分外のデートもそこまで得意じゃなかった。(電車も人混みも苦手)私も会うのは楽しいが毎週人と会うってお金がかかるんだな〜と感じていた。

そこでお盆を使って我が家に2,3泊しようという話になった。お互い1人の時間が好きなので最初は「申し訳ないけど場合によっては連泊は難しいかも」と言っていた。我が家はワンルームで一人になれるスペースはほぼなかった。人によっては酷い発言に見えるかもしれないが、そりゃそうみたいな話だった。

しかし泊まってみればお互いなんとなく居心地が良い。わたしは家族仲がまあまあ良く、両親を名前で呼ぶほどにはフラットな関係で過ごしているが、彼とずっといるのは家族といるのに近い感覚だった。

彼もまた思っていたより平気だったようで、そのままだらだら我が家に居続け、結果的には10日間ほどあるお盆+週末のうち帰省期間以外は我が家にいた。わたしが中日に出勤した際は一人でお留守番していた。(交際して1ヶ月の男に家を明け渡すわたしの危機管理能力にも問題がある)

結果的にそこからほぼ毎週、どちらかの用事さえ入らなければ土日は我が家に来て一緒に料理を作ったりだらだらしたりして半同棲生活を送っていた。

それももう終わりか〜人生が変わるのは猛スピードだ。この27年間で自分の人生や社会が一瞬で捻じ曲がって元に戻らない様を見ていた。ならこちらも対抗していい方向に舵を切っていくしかない。ゆるやかに変化する人生はないのだから。

するとどうやら彼が余ってる食料品を処理していきたいとのことで夕食は別々にすることにした。その間、通話を繋げて雑談をする。

その中でわたしは同棲への不安を口に出した。先ほど出したような話を交えながら喋っていくと気持ちがヒートアップしていくのがわかる。

気づくとストップが入る。要約すると彼から「まだ起こってないことに対して起こった際の贖罪方法を問われてて、追及されてるみたいだよ。」と言われる。

そんなつもりはなかった。先に悪い可能性を考えておけばそれを回避できると思っているからである。その上での当然の議論で当然の指摘で当然のすり合わせだと思っていた。

そもそもわたしはどうやら常に話し方が喧嘩腰らしい。友人たちはよく仲良くしてくれているものだ。自分の中では練った意見をぶつけては打ち返されてまた打っていつか穿つことを願っている。

自分を刃だとすると周囲を砥石だと思っている。でも他の人も同じように何かの形をしているんだよな…反省。

それと自分はどうにも社会にフィットした形をしていないくちゃくちゃの存在なので、こんなことを言いつつずっと社会から責められ続けて、後悔して、学習して、変化してを繰り返している。幼少期から対人関係での失敗が絶えない。

でも100自分のせいだとも思ってなくて、たどり着いた思考回路が「自分含めて全員悪い」である。極論。白黒。脳の構造が生まれながらこうなっている。

それも別に悪いと思ってない。いや悪いのかもしれないがやめる気があまりない。

ここは話が長くなるので割愛する。

しょんぼりしてると恋人が「そもそも君はすごく会話量が多いから100返すのは難しいよ」と追い打ちをかける。まあ妥当ではあるのだが。

「友人たちともっと喋った方がいいんじゃないか?」とも提案される。そうだね〜と答えるしかないが到底それで収まる気もしない。困ったねえ、と返ってくる。

「研究中の自分の考えをぶつける先としてぬいぐるみを用意することがあるらしいよ。」と恋人。かわいい。みんな研究室にぬいぐるみを置いて恋人のようなちょっと静かめで内向的な男性たちがぽそぽそお喋りしてるのが浮かんで破顔した。

買ってあげるよダッフィーとか、と言われたがわたしは1度もダッフィーが好きとは言っていない。ミッフィーと混同している可能性があったのでミッフィーを所望した。

そんなこんなで恋人が出発したので、わたしは焼きいか&七味マヨを梅酒と共に嗜みながらせせチャンネルを見て待つことにした。

到着するころにはぺろぺろになっていたし、さっき食ってかかったのが嘘のように穏やかな気持ちになっている。

いつも会うと気持ちが落ち着くのにな、不可視部分が多かったり、1人で考え込む時間が長くなるのがよくないのかもしれない。同棲を始めたらぬいぐるみを介さずお喋りできるだろうか。