「欲しい! 」はこうしてつくられる 脳科学者とマーケターが教える「買い物」の心理
消費の世界はとりわけ騒がしい。看板広告、テレビやラジオのCM、ソーシャルメディアの広告、クリックを誘う記事。企業とタイアップしたインフルエンサーによる宣伝などはほんの序の口だ。消費者が注意を向けるスパンが短かくなっているのも無理はない。
これほどのノイズに囲まれているのだから、企業はますますアンカーを探そうとする脳の傾向に見合う対策をとろうとする。消費者の注意をつかむには、そうする以外に道はない。そうしてカオスと化した環境のなかで、過剰に刺激を受け、過剰な負担を強いられている消費者の脳は、選択肢を除外して価値判断の基準となる便利な数字に頼らざるを得なくなった状況をむしろ喜んでいる。
UXだけでは足りない何か
https://baigie.me/blog-ui/2024/02/06/what_is_ux/
ファストフード店のメニューが“見づらく”作られている、納得の理由
記事によれば、見づらいデザインによって企業側が優先的に買って欲しい商品に顧客を誘導することに成功している、とされている。果たしてこれは、顧客体験という観点では、どう捉えるべきなのか。
自らの意思を持って選びたい顧客にとっては、望ましくないデザイン、体験を阻害されるデザインと言える。企業が収益性を高めるために仕掛けたダークパターンと捉えることもできる。
しかし、すべての顧客がレジを前にして冷静な選択をしたいわけではない。なんとなくの希望しかない状況の中、限られた時間内で意思決定するには、ある程度誘導してくれた方が楽、という人もいる。「選択疲れ」という言葉もあるが、多くの選択肢が提示されて選べることが、顧客やユーザーにとって常に望ましい体験とは限らない。
この見づらいデザインは、自分の意思で選ぶことに拘らない顧客にとっては、体験上の利益(例:選択のショートカット)に寄与するデザインという見方もできる。
伝わる・揺さぶる! 文章を書く (PHP新書)
「自分の言葉で喋れていないな」そんな感覚が20歳くらいからぼんやりとあった。いつも間に合わせたような言葉を並べていた気がする。精神の根底に「傷つきたくない」みたいなものがある(それはなぜ?)と何かを見て「これは!」とお気に入りしたものの、それのどこに惹かれたのかを考えずに回避してしまうことになるのかな。
何ごとも考えない、考えてないことにさえ気づかない人は、一見オメデタイ人のように思えるのだが、実は深く傷ついている。
「考えない」というのは、自然天然の状態ではなく、実は、不自由なことではないだろうか。
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方法を手にしても、考えることは、もともと孤独で辛い作業だ。考えて、問題点がはっきりしたとしても、それは予想以上に厳しい現実かもしれない。
例えば、想像以上の相手との距離、非力な自分の立場、これが自分かと疑うような本心に気づくことになるかもしれない。
しかし、それでも思考を前にすすめたとき、見えてくるのは、他の誰でもない「自分の意思」だ。
さらに、自分の意思を書き表わすことによって、人の心を動かし、望む状況を切り開いていけるとしたら、こんなに自由なことはない。
本書を踏み台に、そういう自由をあなたに味わってほしい。
なぜ、意見が出ないのだろう?
あなたは、こんな文章を書いていないだろうか?
知識や情報を並べただけで、結局自分の見解が無い。
言いたいことがたくさんありすぎて絞れない。
言いたいことが自分でもはっきりしない。
「意見」は出ているのだが、どこか一般的な、空々しい、自分が本当に言いたいことではない感じがする。
自分の意見が打ち出せない原因としては
考えていない。
大きすぎる問いをまるごと相手にしている。
自分の根本にある想いにうそをついている。
その問題に対する基礎的な知識・情報が不足しており、意見を言う資格がない。
決断によって生じるリスクを引き受けられない
小川哲「今のSNSは主張なき人々の極論がインフレする魔境状態」
SNSでは案外、自分の主張をろくに持たない人の方が強い点も興味深く見ています。「みんながこういうことを言いたがっている」という内容を、極端に言い換えて代弁するのが、最もインプレッションを稼げる方法だからです。つまり「主張のない人ほど極端なことを言う」というねじれた状況になっている。インプレッション欲しさに発信していた極論が次第に内面化され、過激化していって、それがお金にもなってサバイブしていく人が作家の中からも現れたりしています。良いか悪いかはともかく、そういう魔境みたいな場所になっているなと見ています。
哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)
映画を見に行ってから気になって原作本を紙で買った。映画の終わり方だと主人公も「哀れなるもの」になってしまうブラックユーモア的な終わり方だけど(それもいい)、原作本ではまったく違う展開で頭を引っ叩かれる。
なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか
私はシメノン神父に、昼の十二時四十分の鐘が鳴ったとき、まだ仕事が終わっていないと感じたらどうするのかと尋ねた。長年、被告側弁護士をしていた彼は、その経験でつちかわれた自信にあふれる口調でこう答えた。
「仕事を、忘れるだけです」
仕事を、忘れる。それは俗世間では実践することがほとんどない精神的鍛錬だ。だがそれこそが、修道院における極めて人間的な働き方を可能にしている要因のひとつだ。この渓谷で暮らすベネディクト会の修道士たちは、自らの時間と行動を厳しく管理している。そうすることで、自分たちの欲望を制御しているのだ。それは同時に、労働を制限の範囲内に抑えることにもつながる。仕事を忘れることで、彼らはもっと重要なことに取り組むことができるのだ。
仕事よりも祈りを優先するその姿勢はトータル・ワークを打破する方法は余暇にあるとするヨセフ・ビーパーの主張にも通じる。
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しかし、私たちがその正当性をいかに論じようとも、もっと上の誰かが仕事を厳しく制限しないかぎり、何も変わらない。そしてその誰かは仕事のしすぎが冒涜的とされるくらい、“神聖な存在”でなければならないのだ。
自分たちだけでこのような制限を守るのは難しい。だからこそ、働かなければという気持ちを忘れさせてくれ、仕事の周囲に境界線を引くのを手伝ってくれるコミュニティが必要なのだ。
……
転職ばっかりうまくなる
これは帰省前に父が「買ってきて」と電話をくれたことをきっかけに読んだ本。