
ホン・サンスの映画に出てくる男性は大抵だらしなくて、酒ばかり飲み、女性関係もだらしない。しかし、儒教的家族観が根強い韓国において、そのような所謂男らしくない男性を描くことは、アンチテーゼと言えるのではないか、と指摘されることはよくある。
そんなホン・サンスも、少しずつ自身を投影させたキャラクターではなく、老いや死への視点や、若い世代を俯瞰的に見ているような視点へと移り変わっている様子が『イントロダクション』、『あなたの顔の前に』などで感じられる。
久しぶりに男性を主人公にした『WALK UP』もそうで。かつて描いてきた男女のぐずつきを彷彿させるものの、その背後には“老い”への視点があり、男女の描き方も少しずつ変わっているのを感じさせる。
と、ホン・サンスの話をしてきたが、ホン・サンスの話が主題なのではない。ホン・サンスが描く、“男らしさ”から外れた男性を見てつい私が思い出すのは父のことである。
父は1968年生まれである。父の父、つまり私の祖父(2011年に他界)は、戦争体験者で、東京大空襲も経験し、空襲で父を亡くしている。母親と兄弟らで戦後の焼け野原を生き抜いた苦労人である。働きながら夜間学校に通い、教職に就いた。
父は小学校から大学まで私立の所謂坊ちゃんだが、私立は社会性のない父を野放しにしてくれた一方で、常に集団に馴染めないことを認識させる環境でもあっただろう。中高一貫の男子校で友人はいなかったという。
そんなコミュニケーションに難がある父を変えたのはアルコールである。酒を飲めば陽気になれ、真面目な坊ちゃんを捨てて馬鹿になれることを知った父は社交的に。とまあそんな父が色々あって(長くなるので端折る)母と出会い、姉が生まれ一年後に私が生まれる。
父は、厳格な父親しか知らなかったという言い訳を後にしているが、年子の姉と私に対してとにかく厳しかった。
仕事から帰ってきて家が片付いていないと寝ている姉と私を叩き起こして怒鳴り散らしながら片付けさせるし、夜寝ずに騒いでいたら庭に放り出し、鍵を閉めてしまう。
偏頭痛持ちですぐ頭が痛くなるので、父の機嫌が悪くなったら姉と私は静かにしていなければならなかった。怒鳴られ叩かれるからだ。幼い頃の姉と私は常に父の顔色をうかがっていたわけだ。突然懐くわけがない。
姉はピアノ、私はバイオリンを習っていた。先に姉がピアノを習っていたのでじゃ私はバイオリンにしようと思ったが、この選択を私はずっと後悔することになる。
父もバイオリンを習っており、自分が弾けるもんでまあ、練習していたら「ヘタクソ!頭痛になるやめろ!」と怒鳴られ叩かれ。私の歴代のバイオリンには私の涙と鼻水が染み込んでいるといっても過言ではない。
余談だが、バイオリンは通常の大人サイズの他に二分の1、四分の1、八分の1……と小さなサイズがあり、子供の成長に合わせて大きくなっていく。
練習中にティッシュケースが飛んでくることはしょっちゅうで、今でも忘れられないのはタウンページだ。頭がぐわんと揺れた。今じゃもう家庭にタウンページなど置いていないだろうが私が幼稚園生くらいの2000年初期はあったようだ。
(幼少期の話は『年少日記』のレビューでも少し触れている)
そんな父に対し、衝撃を受けたことは沢山あるのがその一つが弟が生まれた時だ。私より5つ下の弟が生まれた時、念願の男の子だったのもあり、えらく可愛がった。父親が子供を抱いて可愛がる、当たり前の姿であるが、私の知っている父親はそんな人間ではなかった。育児など参加する人間ではなかった。
そして少しずつ、30代になり血気盛んだった20代から少し落ち着き始めたのか、父の厳しいしつけがゆるまり、私より7つ下の妹に関しては完全に放置だった。弟は息子なもんで、やたら遊びたがったが、異常に厳しく怒鳴りつけたり叩いたりすることは少しずつ減ってきた。
自分が大人になってしみじみ、父は、少しずつ“厳しい父親”という祖父のような父親であることを放棄したのだなと思うようになった。無理をして厳しい父親であろうとした側面もあったのだろう。
解放された父親は開き直り、反面教師と化した。しかし、厳格な祖父、中高男子校の上に仕事も営業職で男ばかりと、男社会で生きてきた父はそう簡単に“男らしさ”の価値観を変えたりはしない。
これも父の発言で衝撃を受けた言葉の一つだが、『女神の見えざる手』を一緒に見ていた時、父は「主人公のような女はむかつく。俺は女の上司の元で働いたこともないし、働けない」と言ったのだ。唖然として返す言葉がなかった。
中年にさしかかった父は“意識高い系女子”“インテリ女子”に対する偏見が酷いミソジニー老害を露見させてきたが、私はまだまだベイビーなのでキッと噛みついて「私はそう思いません」と言い続けている。
父は女の私を同じ土俵に立たせないのでいつまで経っても私の意見は父にパンチを与えないが、弟の意見は父にパンチを与える。そして弟に言われてしょげた父は自分の感情をぶつける相手として私を選ぶ。
どこまでもグロテスクだが、ある意味で“男らしさ”の呪縛から逃れられない成れの果てが父なのかもしれないとも思う。
ただ、私は父のセラピーをしてあげる気はさらさらないので、おじさんのセンチメンタルを正論でぶっ潰しては「正論を言う女は可愛くない」と言われている。
日付不明(別媒体に書いたものを転記)