suyari
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ここから先は進撃の巨人のネタバレにもなり得る内容なので、進撃の巨人を今後読む予定のある方はブラウザを閉じるか心して読むかしてくださいませ。

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ひと月ほど前に進撃の巨人のマンガを今更ながら一気読みしたのだが、あれからずっと結末について考えていた。自分がもし、壁内に暮らす人々はこの世で唯一の人類たちだと記憶を改ざんされて、巨人の恐怖にさらされながら壁の中で生きて、いざ外に出て自由を掴んだと思ったらそこには普通に存続した世界と大量の人類がいて、更には彼らにとって自分たちは「悪魔」と呼ばれ憎しみの対象とされているとしたら…。「世界中とそこに付随する人類を駆逐する」という決断をするのだろうか?

私はずっと家の中で生きている。正確には2018年から。最初の3年ほどは本当に敷地内から一歩も出なかったし、家の形状とノンバリアフリーの都合から、私の生活圏内からは人が見えず、人の声もほとんど聞こえなかった。その期間中、「もし私の知らぬ間にこの土地以外の世界が滅んでいても、何か騙されてこの家が観測されていても、何も気付くことはないだろうな」と思って暮らしていた。数年経って痛みが少し楽になり、ようやく自分の足でほんの少し歩けるようになり、バリアフリーの工事が一部終了し、さてようやく外に出ようと車椅子を押され、ガレージの外に出たとき、空は思ったより広く、車道や町並みは思ったよりいつも通りだった。要するに大した感動がなかった。じんわりとした嬉しさがずっと広がってはいたが、劇的な、いかにも映画的な感激はなかった。あの日、私は確実に壁外への一歩を踏み出したのに、その日のことをさほど覚えていない。あれがいつのことだったのかも。そもそも、喜びすぎると後でダメだった時に傷付くと何度も何度も繰り返し学ばされる境遇にあったから、喜びに対してのストッパーが自分の中にあったのかもしれない。

2024年の春になり、進撃の巨人を読み、私は「壁内(へきない)」という概念と「壁外(へきがい)」という概念を知った。私はずっと壁内で暮らしてきて、これは自分が望んでいたことでは決してなかったが、ではかといって壁外のすべてを憎んでいたかというとそうでもなく、それは私がもとから「壁外」を前提に生きてきたからだろう。この世には壁内で生まれ、壁内でしか生きたことがない人もきっといるはずだ。その人たちは果たして、壁外のすべてを、壁外人類を憎むのだろうか?私にはわからない。恐らく、そんな彼らは壁外人類と接触して(看病などをされて)生きているから、壁外人類が悪い存在だとも思えないはずだ…。なんの話だ…?

私は壁外人類と話していると体調が悪くなる。酷く緊張して脳が疲れてしまう。お喋りできること自体は嬉しいのに、壁内人類(家族)と話しているよりずっと息抜きになるのに。もどかしさを抱えながら、最近は少しずつ、少しずつ、練習をしている。リハビリの先生と接触するのにも慣れてきて、目を合わせないように気を付けてはいるが、リハビリより会話の方が疲れるのだが、「壁外人類との接触の練習!」と思うと、なんだか気楽に過ごせるようになった。たまの外出も「壁外調査だ!」と思うと気楽になる。すべては進撃の巨人のおかげだ。こういう、自分の生活に物語の言葉が混じってくるのはユーモアがあって、良い。作品自体はめちゃくちゃシリアスだけど!

とにかく日々壁を感じているので、いつかこの壁が私の心から、物理的に取り払われますように。

@suyari
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