実家に帰っている時間暇だったのでネトフリでドラマを見ていたのだけれど、ハマってしまって今週はずっとドラマを見ていた。実写映画を見に行くことはたまにあるけど、テレビドラマを見るのは初めて。内容もめちゃくちゃ面白かったし、媒体によって見せ方って全然違うからそういう意味でも面白かった。
フォロワーにおすすめされていた「MIU404」を見た!七話に右中指にブラックリングをつけている人が出てきてめちゃくちゃ嬉しかった。その人がAスペクトラムであろうということは作中で一切言及されず、一切物語にも関わらないのに画面に写っていて、わたしたちはちゃんといるし、当然にいるものとして物語を作ってくれる人もいるんだと思えた。しかもドラマって一人で作っているわけもなく、大人数が携わっているような形態のものに描写があることがとても嬉しかった。
高校の時の友人がわたしの文章のことを「磨けば光る原石」と言ってくれたことがあって、それをずっと覚えている。今覚えば一介の高校生のくせに上からだなと思わないでもないけど、初めて肉声でもらった感想で、その友人がわたしの書いたものを読んでは褒め続けてくれたということが、人に書いたものを見せるときのわたしの根幹にあると感じる。今日まで来てみれば、磨いたところで宝石のように普遍的な価値を持つようなものではなく、わたしやわたしに近しい感性の人にだけ煌めいて見えるイミテーションであったわけだけれど、それでも嬉しかった気持ちを抱えていくことを否定する理由にはならない。わたしにとっての煌めきを抱え続けなくては。
今日は映画ルックバックを見た。音楽で好きな音楽家が携わっていたのだけれど、一時間ずっと好きな作曲家の好きな音だけがしていてストーリーよりもそちらがうれしくて胸がいっぱいになっていた。サントラ聴けるので、ぜひ。
なにかを書くときに、この人の曲のような音が文章からしていたらいいなと思っているのだけれど、とんでもない仮定の話ではあるが、「映像化されるほどの作家になって自分の作品に音楽をつけてもらう」という夢を今から持つこともできるんだな、と帰りにふっと気がついた。別にだからといってどうというわけでもなくて、じゃあやろうと思っているわけでもないのだけれども、すべてのものを手の届かないものだと思うのもそれはそれで間違いなんだろうなと思う。世界が広くて可能性は無限であるということを恐ろしく思う。叶うかどうかにかかわらず夢を持つ権利はあり、無邪気に信じるには年を食っているけれども諦めるには早い(客観的に見れば)。
以前人に借りて読んだ春の呪い、ふと思い出して再読した。「こんなに強い気持ちで他者の人生に関わろうとできるのって羨ましい」「呪われてもいいと思えるくらいの愛しい人がいるってどんな気持ちなんだろう」という感想になってしまって、こんなにわたしの手の中にないものの話をしている漫画だったかと思った。初読のときから比べて自分が変わって、恋愛という文脈からすっかり切り離されてしまったことを強く感じて、むなしく悲しい。他者に強い感情を抱き関与しようとすること、それができる人にとっては当たり前の選択肢なのだろうか。わたしには想像もつかないが。
ご飯を食べている途中に飽きてしまって、書きかけだった日記に追記を始めたが全然飯に戻りたいと思えない。と書きながらスープを啜る。作ったものが美味しくないのか、気が乗らないだけか、自分でもわからない。身体のコントロールがずっとままならなくて苦しい。