ものすごくねむい。たすけてほしいくらいねむい。
日々生活の中での思考回路もすごくとっ散らかっているので、日記もとっ散らかったような感じにしたくて、思いついたことをただ適当に書き散らしているんだけど、自分の書いた文というのはものすごく恥ずかしいなと思う。思った。今読み返していて。
昔からこんなに恥ずかしかったのかな。あまり覚えていない気がする。自分自身のことがすごく恥ずかしいし好きではないということはずっと昔から一貫していると思う。なんにもうまくできやしないという自認をだいじに抱えたままになってしまっている、人生。
すこし前に、メモ帳代わりにしている自分のFF0人のTwitterアカウントを久しぶりに開いたら、買い物のメモと、苦しそうなツイートが並んでいて、懐かしくなった。最近はメモをiPhoneのメモ帳に、苦しいことは知り合いに言っているから、今はわたしにとっては必要のないアカウントなのかもしれない。手離すのは惜しいなと思うので、しばらくは消さないでいたいけれど。
苦しそうなツイートというのは、「どんどん苦しくなっていくだけならもういらないな」とか、「好きでいてもらうことすら受け入れられなくてごめんなさい」とか、そういうたぐいのこと。その気持ちは痛いほどわかる。さすがは過去のわたし。
趣味のことですら、誰かに好意をもらうことが苦しくなって、楽しくやれなくなって、苦しいならやめてしまおうと思っていた。今も思っている。はやく消えてしまいたい。
わたし自身すら好きじゃない「わたし」を、好きにならないで欲しい。褒めないで欲しい、認めないで欲しい。
褒められないよりはずっとずっと良いし、わがままなのに、「怖いし、気持ち悪い」と思ってしまう。いつも他者からの好意的な評価から逃げてしまう。欲しくない。好きにならないで欲しい。怖い。苦しい。こんな人間を好きにならせてしまってごめんなさいって謝るのも疲れるからやめたい。どうしたら自分を認めてあげられるのかわからない。辛い。
いつかこんな掃き溜めのようなことばさえ、微笑ましく思える日がくるのかな。くるって思えたほうがいいんだろうな。未来があるということはひどくおそろしい。生きていたくない。それでもなかよしのともだちを想うと、わたしが先に行ってしまうのは違う、と思う。