違国日記を読んでからいろんなことを考えている。考えすぎなほどに考えている。主に自分が恋愛をしない人間であるということと、自分の生まれついた家庭環境について。全然言葉としてまとめることができないけど……。
わたしの体感としていちばんしっくりくる言い方は、「恋愛も家族愛も物語の中にしかないもののはずなのにみんななんで現実に持ち込んでくるの」だったのかもしれない。と思う。ずっとそう思っていたのに、そう言葉にすることはひどく幼稚で、許されないことのような気がしていた。(幼稚なのは事実だけども)物語の中にしかないわけがない。ないことはわかっているつもりなのにそれでは感情が納得できない。朝が怒っているのを見ると、喪失してしまったものとの感情の決着をつける方法は、悲しんだり寂しがったりすることだけではなくて、怒ることだってそのうちのひとつなんだと思えた。
わたしはカップリング二次創作をしながらなんで人間が恋をするのかの理由をずっと求めていたのに、社会は恋愛をしない/したくない/できない人間のほうにその理由を求めていた。恋愛の話をしているときだけみんながどっか膜の向こうに行ってしまったみたいな気持ちになっていたけれど、そもそもはわたしが膜の向こうに生まれついていた。わたしはわたしの感覚が自然なものだと思っていたのに、同じように、誰にも恋愛感情を抱かないことを自然なことだと思っている人は世の中からすれば少数だった。それが悲しいし寂しいと思う。それに、少数の人間だけが理解してもらうために言葉やラベルを必要としていて、必要としない人間がいることをずるいと思う。ずっとしょうがないことなんだと思っていたけれども、そんなことなくて、ただ生きるだけのことでたくさんの気力を必要としていることはしょうがなくないんだ。と思った。
思ったんだけどそれが悲しい寂しい怒りだけなのかというとそうでもなくて、「そう思えるところまで辿り着けたんだな」という感慨があって。わたし自身が諦めてきたことを、わたし自身の手でまた拾い上げられるということなんだなあ。
20になる前から「人生って長すぎ」って思っていたような気がする。社会人になってからは特にそうで、学生は数年単位で区切りがあるのに今はない。それが恐ろしい。自分の歩いてきた道がわからなくなる。だから記録を必要としているのかな、と思った。この日記もそうだけど、見た映画の記録、自炊のログ、その日書いた小説の字数。ひとりで暮らしている以上誰もわたしの生活を覚えていてくれない。だから自分で覚えておくしかない。そのための手段。すべての数字や文字や写真が、わたしの生活を証明してくれている。