無題

日々
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先週一週間はなんにも書けないという気持ちになっていたのだが、日記を再開して数日したらちょっと小説を書けそうな感じがしてきた。喜び。どんなに書いても足りることのない欲として書くことが存在していて、食べたり眠ったりすることと同じくらい、当然の顔をして生活の中にある。わたしの三大欲求は食欲睡眠欲執筆欲なのかもしれない。ちなみに三大欲求については大学のときに聴いた食欲睡眠欲知識欲とする説も気に入っている。

何度も考えていることだが、相手の性別も、対象が一人かどうかも、性的魅力を感じるかどうかも、独占欲が向くかどうかも、振り向いて欲しいかどうかも、なにもかも恋愛であることを定義してくれないなら、いったいなにをもって恋を定義すればいいのだろう。手を繋いだりハグをしたりして安心することや相手の幸福をひたすら祈ることを、恋ではないと結論づけるものはわたしの中の感覚以外なにもない。違う「ような気がする」ので、恋ではないと「思う」。上記の二条件を満たす友人や知人(ここで知人と表記するのはわたしが彼女らに後輩として出会ってしまったからであり、友人という言葉におさめることに畏れ多さを持つからである)は、有難いことに片手では足りないほどに数えることができるが、自身が向けている好意や信頼に理由や根拠を求めるのは疲れる。恋だったとして何が悪いのだろう、という開き直りすら感じるようになった。

というかわたしは手を繋いだりハグをしたりすることは性的接触ではないと定義づけているけれども、どこからが性的な接触であるかというのも人によって定義が異なってくるのではないだろうか。

わたしは恋という感情のことを自身の中で完結させられるものだとはあまり思えない。現在の社会において、「恋愛的に好きである」という状態は相手になにかのアクションを要求するものとして認識されている、とわたしは思う。好きになって、アプローチをかけ、付き合って、性的接触に及ぶという一連の流れはつくづく儀礼的だと感じる。恋愛という手続きは今日までの社会で育まれてきたひとつの文化であり、一般的に望まれるような手続きに乗ることができない、違和感を持つものとしてわたしはいる。

わたしはその文化を否定したり、なくなってほしいと考えたりしているわけではなく、「その流れに乗らなくても生きていける社会であって欲しい」と思っている。なので、これまで描いてきたたくさんの推しカプたちがお互いを好きになってから性的接触に及ぶまでの一連の流れを踏むことを不自然に感じることはあまりない。というか物語というものは一定、手続きやセオリーを踏むことで進展していくものではないかとも思う。なので、手続きを踏ませることに躊躇がない、という書き方のほうがいいのかもしれない。

そもそも誰かへの感情を恋だと認識することができるならば、その人物とわたしとの間の繋がりはかなり希薄になる。切り離して、自身とは違う文化の中に生きているのだと思えば、自分の手で書ける。とはいえ、無自覚の部分で自分のAスペクトラムに属するものとしての価値観は滲み出ていることだろうと思うけれども。

ただ最近は切り離すことに寂しさを覚えるようになってきたと思う。それこそがこの議題について話し始めた理由である。話をわたしが友人や知人に向けている感情のことに戻そう。わたしがこの感情を恋だと定義してしまえば、友人や知人になにかのアクションを要求してしまうことになるのではないか、と恐れているのかもしれない、と思った。恋ではないような気がする、の「気がする」を構成しているのはこの懸念ではないか。ただでさえいつもたくさんの悩みごとを抱えている彼女らに、わたしのせいで余計なものを背負わせたくない。

でも「いやはや熱海くん」の熱海くんも「一方的な自分の中だけで完結する恋愛もあると思ってるかもしんないす」と述べているので(2巻14話より)わたしの仮説もただしくはないのかもしれない。でも恋だと認識するメリットはなんなんだろう?そもそもメリットとかそういう話ではないんだろう。世の大半の人間にとっては……。

よくわからないことをぐるぐる考えてしまった。うっかり予定になかった入浴剤を買って帰ってしまったので、今晩使ってみようと思う。

@suzu_sn
息継ぎをする