「自分の文を好きでいてくれる人と友達になりたい」みたいなことをどこかの日に書いていなかっただろうかと思ったのだけれど、うまく見つけられなかった。(6/1追記:2/5の日記でした)でもそう思うってすごく他人任せだし、「好きでいてもらえる文でいられているか」が気になってしまうから不健全な気がする。自分が「好きな文の人」と友達になりたいかというとあまりそういう気持ちはなくて、崇拝の方にいってしまうのでだめだ。自分は、対等な人間としてのコミュニケーションを、創作をやる人間同志ではできないような気がしてしまう。
相手のことを生活している、生きている人間だと思う感覚が薄いのかも。うまく言えない。相手の年が近いのがわかると途端に親近感を持ったりもする。よくわかんない。苦しい。どちらにせよ距離感を掴めなくて、遠く思いすぎたり近く感じすぎたりしていると思う。いっつも自分が引かれてないか、懐きすぎて困らせてないかって考えてる。
というか、友達は欲しいけどコミュニティに所属したいわけじゃないのってわがままなんだろうか。最近よく思う。正直、「界隈」って言葉のことをあまり理解できない。同じコンテンツを好きなくらいで勝手に肩を組みに来ないでほしい。お互いに作品の感想を送りあったり、原作の好きなところを話したりするような関係を友達って呼んでいいなら友達はほしい。でも、それの広がりによって「(カプ名)界隈」「(作品名)界隈」って呼ばれるの、なんなの。ただ好きなだけなのに。友達の友達も友達なことが多いだけじゃないのかな。そもそも多人数コミュニティの中にいたことが人生でさほど多くないから、自分の世渡り能力が弱すぎるのかもしれないとも思うけど……。わたしはわたしという個体であって、コミュニティを構成するただの一要素にはなれない。
昨日、窓を開けてぼんやりしていたら道を通りがかった人の声や自転車の通行音がしていて、ただ通りすがる人とわたしの接点はなくて、逆もそうで、まったく繋がりのない人生がそれぞれに続いていることがすごく怖くなった。自分の関わらない、知らないものがそれはもう山のようにあって、自分が関係しなくても展開していく可能性たちの多さにめまいがしそうだった。世界って広すぎて気持ち悪い。自分の人生や生活だけに必死になっている間は考えないですむのに、ふっと力が抜けて他人の人生が視野に入ってくるとき、途方もなく恐ろしくなる。
考えていることがたくさんあるのに次のカウンセリングが遠い。こわい。