Twitterで見かけた、すごく絵も漫画もうまい二次創作の漫画、そろそろくっつくんだ!やった〜!と思いながら読んでいたら「男同士だから生産性がない、経歴に傷がつくかもしれない」ってセリフが出てきて、悲しい気持ちになり、でも、だからって落ち込んでられないよなという決意もした。「好きな絵やお話であることは価値観や知識と紐付くはずがない」ということ、当たり前なのに、自分がしたくないからってみんなそうであってくれるってなんか無邪気に信じちゃってたな、って、すごくじんわりと悲しみが滲みてきてほんとに、悲しい。このお話がたくさんの人の目に触れ、それによりまた差別の再生産が行われることだろうと思う。あ〜あ。恋を盛り上がらせる要素としてはあまりに残酷なんだ。もう。いまの社会じゃさぁ。めちゃくちゃ文章がうまくなって叩きつけてやりたいよ。誰かを傷付けるような前振りはいらない、物語の中くらいなんの懸念もなく100%幸せになれるだろって!われわれにはわれわれのための讃歌が必要で、わたしには言葉があるんだから、大丈夫って握りしめながら行くしかないんだ。
今、高校時代の友人、大学での友人や先輩、趣味垢のフォロワー、この日記、の四つの居場所があって、その上でカウンセリングですべての話ができるの、めちゃくちゃいい関係性づくりなんじゃないかという気がしてきた。どこかで嫌なことあっても、絶対どれかでは話せる。
前のカウンセリングは大学の学生相談室だったから、卒業を期に終結した。そのとき「このカウンセリングみたいに自分の気持ちを言葉にする場は持てそうですか?」って聞かれて、Twitterがそうなるといいなぁって思いますと返したんだけど、今考えるとこの日記がそうなのかもしれない。結局Twitterではうまくいかず、また別のカウンセリングに通い始めたんだけど。そういえば再開してからも一年経ったのか。去年の今頃にはもう前職を辞めることを伝えていた気がする。あの頃、たぶんまだ次の職も決まってなくて不安だったけど、今日まで生きてこれて良かったな。最初のカウンセリングの初回で言われた、「今日までよく生きてこられましたね」って言葉を後生大事に抱きしめながら生きてる。もう会わない人って、いくら美化していっても、未来で失望する可能性が著しく低くて安心かもしれない。
小説を書くのを少し休もうって思ってから日記の字数増えてる気がする。書くことに慣れすぎてしまっているの、おもしろい。今日はちょっと書かなくちゃいけない〜。がんばろ。とりあえず買い物行って作り置きしてから始めないと。午前10時半の浴槽からこの記事を書いてる。