JICA関係の皆さんと歴史探索に行ってきました!訪問地は首都マプト州マトラ市。この博物館を訪れるまで、マトラ市は閑静な住宅街という印象でした。学んだ事を忘れないようにここにまとめます!
①1981年1月30日“マトラの虐殺事件”モニュメント
赤い3つのモニュメント。赤は血の色。
モザンビークのポルトガルからの独立は1974年。その1年後からモザンビークは周辺国(南アフリカ、ジンバブエ等)の独立を手助けするため、ここマトラに周辺国の独立の獅子が住み、外交協力や軍事協力を行っていた。
その時代、南アフリカはアパルトヘイト政策を行っており。アパルトヘイト推進派の南アフリカ人が1981年1月30日深夜に、アパルトヘイト反対派が暮らす3つの家を襲撃した。現在、その家をシンボルにしモニュメントが建てられた。襲撃の際に関係の無いモザンビーク人も殺されており虐殺と言われている。南アフリカからマトラへの空爆もあった。そして、独立を進める時代同じ様に周辺国も襲撃を受けていた。
②博物館内部
モザンビークと南アフリカが共同で建築した建物。南アフリカの大統領も訪れている。
1981年2月14日、マプトの独立広場。マトラへの攻撃を拒否するために開催された集会でのサモラ・マシェル大統領(モザンビーク初代大統領)の演説の抜粋。
「1月30日午前1時頃、ローデシアの傭兵を含む南アフリカの特殊部隊が、南アフリカANCのメンバーと南アフリカの労働組合のメンバーが住んでいた3軒の家を襲撃した。彼らはここに来て殺人をしたいのです。 そこで私たちは「彼らを来させましょう!」と言います。 人種差別主義者全員来てください...彼らを来させてください。 私たちは戦争をきっぱりと終わらせます。 この地域には真の平和が訪れるでしょう。 私たちが住んでいるのは偽りの平和ではありません。 南アフリカ人には来てもらいましょう。しかし戦争はプレトリアで終わると確信させてください! プレトリアでは多数派が権力を握ることになるため、戦争はプレトリアで終わると確信している。」
元々のアフリカの文化。
西洋人がキリスト教を持ってやってくる。
植民地支配が始まる。モザンビークはポルトガル領。
モザンビークで一番有名な写真。独立時のサモラ・マシェル大統領のスピーチ。
6月16日“アフリカこどもの日”のきっかけとなった事件の写真。
1976年6月16日、南アフリカ共和国ソウェトで、子どもや若者が通りにくり出し、教育の質の向上と、自分たちの母国語で教育を受ける権利を主張する、抗議活動を行いました。当時、南アフリカでは、アパルトヘイトが実施されており、ソウェトは同国の最大の黒人居住区でした。その地域の学校において、アフリカーンス語(植民地支配によってもたらされたオランダ語が、独自の発展を遂げた言語)の強制に対して抗議する、平和なデモ行進でした。しかし、この運動に参加した子どもたちが軍隊から無差別に銃撃を受けるなどして、抗議活動が続いた2週間の間に、100人以上が殺害され、1,000人以上が負傷する事態となりました。反アパルトヘイト闘争の転換点となった出来事ともいわている。毎年この日は世界中で記念式典が行われている。