1人の人間が複数のアイデンティティを持つ状態をいったんすべて共通の議論の場に持ち込む【Vol. 007】

Suzuki SV
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背景

ある人間が複数のアイデンティティを持つ状態,言い換えれば「分身」や「クローン」が生み出された状態について考える。たとえばSNSで1人のユーザーが複数のアカウントを扱う場合,SNSなどの言動の記録や本人の外観のデータなどからある人のモデルを構築し生成AIとして動かす場合,外観を似せたアンドロイドを物理的に製造する場合,クローンにより本人と同一の遺伝子構成をもつ個体を生み出す場合,……と,さまざまな技術や手段がある。自律的な動作の有無も関係なく一緒くたに扱っているが,これは複数のアイデンティティを持つ人物に直面した受け手がどう捉えるかの問題としたいためで,動作原理をここでは問わないこととする。

複数のアイデンティティを扱えることで自己呈示の自由度が上がり,その場の都合に合わせたアイデンティティをデザインし,場によって切り替えながら生きる柔軟さを手に入れられる。しかしその一方で,そのような複数のアイデンティティのマネジメントの難しさはSNSでもよくみられる。ましてや自分自身の「分身」が自律的に振る舞うことが可能ということであれば,その困難さは格段に上昇するはずである。さらに,亡くなった人をデジタル技術で復元する試みもあるが,ここまでくると亡くなった後の自分としても,すでに亡くなった人の立場を考えても現状では望まない方向への独り歩きを食い止める手段が存在しないのではないか。

問いたいこと

2つの問いがある。

まず,自分の中の問題として「本当の自分とは何なのか」を悩んでしまうことに対して「複数のアイデンティティを使い分けている自分自身こそ本当の自分だ」と考える解決策などを示した知見はある。しかし,複数のアイデンティティを持つ人物に直面した受け手はこのような人物をどう受け止めるべきかに関する知見は,私の知る限りわずかである。単に「個人の肉体はひとつなのだからその肉体をもって唯一のアイデンティティとすればよい」と断じられる問題ではない。どこからどこまでが個人とその所有物なのか,その権利はいつまで続くのか,複数のアイデンティティを社会的・法的にどう受け止めるべきか,……など,議論が必要な問題は山積している。

加えて,工学的な発想の持ち主はよく「1人の腕に覚えのある天才が発明した枠組みに世の中が合わせてしまえばよい」という考えをしがちである。そのような発想が世界を変えてきた事実はあるし世界を変えるポテンシャルは今後もあると考える一方で,その発想は実は局所解に過ぎなかったりする場合や,その枠組みの見方を変えたり利用場面を変えたりした方がより枠組みが生かされる場合もありうる。「腕に覚えのある天才」ドリブンでの問題発見・解決のすべてを否定はしないが,より多様な人の目を生かした問題発見・解決の可能性も,今回の問いも含めて模索が必要ではないか。

私にできること

私の過去の研究についてはResearchmapを参照されたい。

これまで私が関わってきた人と身体化エージェント(CGキャラクタ)の相互作用の研究は,実在の人物の「分身」について扱うことをあえて避けてきた。デジタルの世界は物理世界で実現できないことを実現させるためにあるという考えが基本にあり,実在の人物のコピーをつくるような研究に価値を感じてこなかったことがその背景にある。その割には私の研究の拠り所が「人間は,身体化エージェントを含めた社会的に振る舞うと無自覚に知覚された人工物に対してあたかも人間相手であるかのように振る舞う」という原則(Media Equation)であり,これこそデジタルの世界を実在の人間社会のコピーにしようとする試みではないかという指摘もあるだろう。私としてはむしろこの原則の限界はどこだろうかという限界に挑んでいた面もあるので,「限界に直面したらどうするか」という戦略が不十分であるという批判(これは現に私が学生時代から指摘されてきた)については甘んじて受け止めるにせよ,「物理世界や現実の人間社会のコピーづくり」という考えはむしろ否定したいという態度だった点は強調しておきたい。そういう意識から実在の人物の「分身」を扱う研究を避けてきたのだが,このご時世もあり向き合わねばならないだろうという意識に変わった。そしてただ全肯定も全否定もするのではなく,生かすべき技術と技術の暴走を食い止める枠組みを考えることが大事という視点を持つことの重要性も認識している。

そして上記の研究は実験室実験の手法に頼ってきたのだが,手法的に理論仮説や境界条件の設定の中にどうしても勘とひらめきの要素を求めざるをえない面が実はある。分厚い先行研究のサーベイなどでこの勘とひらめきに理屈をつけることはできるが,下手をすれば1人の人間がこのような形で問題発見・解決を行ったところで得られる解の質を高めるには限度がある。研究者のコミュニティの外にもこの問題を広く問う中で,より多面的に問いを検討できないかと考えている。

考察の深化・研究の実現に向けてのお願い

1人の個人が複数のアイデンティティを持つことについても,この手の研究の議論をオープンにすることについても,そもそも無謀だろうという意見もおありでしょうし,理論武装の余地が大いにあるのではという意見をお持ちの方も多いと思われます。また,2つの問いを分けて問うべきではないかという意見もおありかと思いますし,前者は前者で,後者は後者で大きな問いではあるのでそれぞれ個別に考えるべきことも確かにあるとは思いますが,あえて2つの問いを同時に問うたのは前者の問いの大きさゆえでもあります。いずれにせよ,これらの問いについてご意見いただけると大変助かります。

@svslab
人間の考える行為・問う行為に興味を持ちながら分野間を漂う学者による探求ノート。ひとつの分野に腰を落ち着けられない学者の思索にも,何か意味が見いだされることがあるかもしれないという期待で書き続けます。 lit.link/svslab