きのうの日記を

swdldhv
·

きのうの日記を今日書いている。

書く時間は厳密には決めていない。スケジュール帳も兼ねているノートが開けるときに書くようにしている。いまの生活リズムでは会社の昼休みや、晩ごはん後からお風呂に入るまでのあいだが多い。

日記というよりかは記録に近いのかもしれない。きのうのできごとを時系列で書く。今日あったできごとを今日のうちに書くのではなく、明日に書く。それがわたしのルーティン、というやつになっていて、気がついたら二ヶ月以上続いている。三日坊主常習犯である身からすれば、なかなか大したものだ。

ネットや本には朝や夜のルーティンを推奨しているのがほとんど、というかすべてと言っても過言ではない気がするけれど、それが自分自身に合っているかというと、必ずしもそうではない。朝起きて、や、夜寝るまえに、のルーティンが推奨されているのはおそらく、現代人の大半が共通している時間帯、要するに母数が大きい時間帯というだけなんだと思う。当たりやすいのだ、時間が。当たりやすいというだけなので、とうぜん、わたしのように外れてしまう人間もいる。朝起きたときも夜寝るまえもへとへとで、ルーティンどころじゃない、むしろへとへとなのがルーティンなんじゃないか、みたいな人間が。

そう考えてみると、日記だってべつに今日のことを今日書く必要はない。大切なのは記録することなのだから。そもそも今日のことを今日書く必要性はいったいどこからやって来たのだろうか、とさえ思う。

きのうのできごとを今日書く。そのほうが、たぶん、わたしにとってほどよい距離感を保てるのだと思う。今日のことを今日のうちに書くと、落ち着かなくなる。明後日ではもう覚えていない。明日くらいがちょうど良い。

要は、けっきょく陳腐な結論に落ち着いてしまうのだけれど、自分のリズムを見つけるしかない。そしてそのリズムに合った習慣を探し出すしかないのだろう。自分らしく生きる、というのはそういうことなのかはわからないけれど、少なくとも去年より呼吸がしやすくなっている自分がいるのはたしかだ。

今日もわたしはノートを開く。そしてきのうの日記を書く。

他にも席はあるのに、思わずその席にトレイを置いてしまっていた。ガタン、と不恰好な音を立てて。隣に座ってデニッシュパンをもぐもぐさせている人がこちらを見た気がして、全身に汗をかいたような気分になった。だからといって席を変える気はなかった。ぎくしゃくした動きで腰かける。

ちらりと隣を見る。たしかに、そのノートはあった。あるアメリカ人写真家の有名な一枚。妖精のような服をまとった女の子がステップを踏みながら目の前にいるひとの鼻に口づけをしようとしている、遠近法を用いた一枚。新書判のノートの表紙見開きに印刷されているかに見えたけど、上下にマスキングテープが貼られているのでどうやら手作りのようだ。

そのノートはいま、開かれていない。時間から鑑みて、一般に言う昼休みだというのに。

好きだったバンドのギタリストがお気に入りしていたポストから飛んだ。まだオープンから一年も経っていない文章投稿サイトで、そのひとのアカウントには記事がひとつしかなかった。きのうあったできごとを翌日である今日、日記に書く、という記事。きのうの日記を今日書いている、というフレーズがみょうに残っていた。

隣のひとはパンを食べながらスマホをさわっている。横向きにしているから、動画を見てるかゲームをしているかどちらかだと思う。耳にワイヤレスのイヤホンをつけていた。

とりあえず、私も食事をはじめる。この店にいられる時間は限りがある。昼休憩ちゅうなので。カフェラテに口をつけた。今日のメインはサンドイッチだ。一口か二口で食べられる大きさにカットされたものが六つある。味は三種類だ。はじめて食べるものだった。

マッシュしたかぼちゃに枝豆を混ぜ込んだのが好きだなと思ったとき、音がした。パタン、と。 その音は、隣にいなければ気づかないくらいの大きさだった。

さりげなさを装って視線を右へずらす。ふわふわと浮き足立っていた心がいっとう高く舞い上がった。

そのひとはたしかに、日記を書いていた。きのうの日付で。

声をかけることはしなかった。いつも見てます、といってもあのアカウントには記事はいまのところあの記事ひとつだけだ。あなたの記事を読みました、で良いかもしれないかもしれないが、それでもごく自然に踏みとどまったのは、あのサイトがそれを強要しないところがあったからなのかもしれない。しずかなインターネット。気がむいたときにことばを発信し、いつの間にかことばを受け取っているところ。凪のような場所。

隣のあなたがペンを走らせる。ことばを走らせる。その音に聞き耳を立てながら、私は最後のサンドイッチを手に取った。