むかし、ある宮殿の一室で

真珠色の月
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「僕がおまえを殺すのならば、おまえもおそらく本望だろうね」と彼は言った。

俺は真っ白いシーツのかけられた寝台の上に手足を投げ出して仰向けに横たわり、彼はそんな俺の胸の上に馬乗りになっている。

たいして重たくもなく、反対に軽すぎもしないしなやかな肉体を持つ彼の美しい金色の前髪の先端は、俺のむきだしになった額やまぶたに触れそうなほど近くでそよそよと波打っている。それはすこしくすぐったいような、心地よいような、不思議な感覚を俺に与えた。前髪の奥には、彼の琥珀色の瞳が宝石のように静かに輝いている。

「だっておまえは、僕のためにここにいるんだものね」

彼の白く透き通るようなほっそりとした腕。その腕の先にある女のように長く細い十本の指たちは、その華奢な見かけとは裏腹に強い怒りを秘め、俺の喉元に鋭い短剣を突き立てている。

彼の気まぐれによっては、俺は今この瞬間、文字通り息の根を止められたとしても何らおかしくない。彼の口許に浮かんだ優美な微笑は―その微笑の意図が何かは俺には分からないが―結果的に彼の憤りを強調するアクセサリーとしてのみ存在している。

しかし俺は彼の言葉や指先にはさして注意を払わず、彼の水晶体を見つめていた。正確に言えば、そこにうつっている自分の顔を見つめていたのだ。今この瞬間、彼の瞳の中に棲んでいる俺は、このような状況下でも別段焦っているようには見えない。実際に、俺は慌ててなどいないのだ。心は凪いでいる。小さいながら静謐な湖のように。

俺は騎士である。彼を護衛し、命に代えても守り通す使命を負った若き騎士である。そのために血反吐を吐くほど鍛錬し、剣の稽古をしてきたのだ。今ではこの国には俺より腕の立つ騎士はいない。それゆえ俺は次期国王となる彼の側近として、狭き門を幾度もくぐり抜け、今ここに存在しているのだ。王子の側近となった俺を父は誇りに思い、母や妹たちはにこやかに讃えた。それだけで俺の使命はある程度達成されたと言えるだろう。

しかし、俺の主たる彼は俺にそれ以上の使命を負わせたのだ。夜の帳がおり、人々が寝静まった後の宮殿で、彼は俺を自室に呼び出して自分の寝台に横たわらせ、俺の鍛え抜いた身体を愛おしく見つめては耳もとで甘い言葉を囁いた。彼は俺に騎士たることだけでなく、男娼たることをも求めたのだ。

確かに彼は美しかった。いつか王になることが宿命づけられている彼を見て、国の乙女たちはちやほやと羨望のまなざしを向ける。いつか彼の隣に妃として立つことになる可憐な娘は、彼の横に胸を張って立ちながらそのやわらかな頬をそっと赤らめるだろう。

しかし俺は彼の無垢なうなじや、傷ひとつないなめらかな肌を見ても、なんの感慨も起こさなかった。俺はあくまで彼を守ることだけを課された身であり、正直に言えばそれ以外のことは心底どうでもよかったのだ。

そして俺はこの事実、すなわち次期国王となる少年の夜の遊戯について、決して口外しなかった。彼を守護することが使命の俺は、彼が生きてさえいれば何一つとして問題ないからだ。彼にとってもそれは都合のよいことであったらしく、若い王子はほとんど毎晩俺を愛撫し、玩具にして楽しんだ。

それに言ったところで誰が信じるだろうか。次期主君が暇つぶしに騎士と交わるような不逞な男であるということなど。

彼は昼間に城内を歩き回り、完璧な笑顔と立ち居振る舞いで城中の人間を虜にする。人格も能力も欠点ひとつない。何もかもが王の器にふさわしいのだ。そんな彼の夜の姿を知らぬ者は、俺の話を聞けば俺を嘘つきだと罵るか、信じても発狂して自死を選ぶかのどちらかだろう。

「おまえは本当につまらないね」

彼は首をふっと蠱惑的にかしげ、再び笑みを浮かべた。そのなまめかしい仕草は男性的というより女性的に見えた。彼は惜しげもなく、そのすべらかな裸体を窓から差し込んでくる月光に浸している。彼の瞳に映っているもう一人の俺は、黙ったままじっと俺のことを見返している。

その気になれば、俺は彼の手元の短剣を奪い取り、彼を自分の下に組み敷くこともできる。しかしそんなことはしない。これが彼が夜だけに行う遊びのうちのひとつであることは既に承知しているからだ。

そんなことを思いながらまっすぐに瞳を見つめていると、彼は再びゆっくりと口を開いた。

「この何年か、僕はずっとおまえのことを見ていたけれど、どうやらおまえは僕を誤解しているらしい」

彼はそこでしばしの沈黙を挟み、俺が何も言わないのを確認すると、どこか哀しげな目つきをした。彼の言葉は無機質に俺の鼓膜を揺らす、単なる音でしかなかった。

それを確認すると彼は深いため息をついて見せた。それがいつものように演技めいていないのをどこか奇妙だと思いながら、俺は彼の次の言葉を静かに待った。

「おまえは僕を、男性愛者だと思っているのだろう。それは真実だ。でもそれだけじゃない。おまえを一目見たときから、僕はおまえの虜になったのだよ。おまえの奴隷になりたいと思った。国王になるより、その方がずっといいと思った。だからおまえを夜に呼び出すことにしたんだ」

彼の顔は先ほどとは打って変わって、心なしか上気しているように見えた。琥珀色の双眸は涙で潤み、月光に照らされた彼の左半身はとろけてしまいそうに白い。

「けれどおまえは、人間の心というものを持っていないようだね。おまえが僕に親しみのかけらを見せたことは一度もないし、おまえは僕のことを尊敬も崇拝もしていない。かと言って忠誠を誓っているわけでもない。おまえは忠誠を誓っているふりをしているだけだ。機械的に、ただ僕を守るためだけにここにいる。本当につまらない男だ」

彼は短剣を握る指の力を強めた。ぎりぎりで空に浮いていた鋭い刃の切っ先が、俺の喉に触れる。彼はそれを躊躇なく俺の喉に押しつけ、それに伴って俺は喉に鋭く刺すような痛みを覚える。皮膚が切れて血が出ているらしい。しかし、これはいつものことである。俺の頸には、戦闘による傷跡よりも遥かに多く、彼の手による傷跡が勲章のようについている。銀色にきらめく短剣にもやはり、さかさまの俺の顔が映っていた。

「そこで僕は考えたんだよ。おまえは僕に殺されてもなんとも思わないだろう。きっと黙って死んでいくに違いない」

彼の琥珀色の瞳は楽しそうに瞬き、興奮で手の力はさらに強まる。刃の先端は俺の喉仏を正確に指し示し、流れる俺の血液はじわじわとシーツに広がっている。しかし彼の瞳の中の俺の表情は依然として変わらない。

「でもそれでは僕がつまらない。おまえもつまらない男のまま死んでいくことになる。もっといい方法があるんだ」

彼は急に短剣を握る力を緩めた。

「おまえの使命は僕を守ることだったね」

そう微笑んだ彼は、両手で握っていた短剣を鮮やかに翻し、尖った先端を自分の頸へと向けた。あっ、と声をあげる暇さえなかった。彼は何の躊躇もなく、自分の喉笛を鮮やかにかき切った。

彼の頸からは勢いよく血がほとばしり、そのまま倒れ伏した。頸動脈から流れ出た大量の血液は白い彼の身体と彼の寝台を紅く染め上げていった。俺にはそこに染みていく血のどこまでが彼のもので、どこからが俺のものなのか、分からなかった。

俺は叫び声を上げながら、まだ少年期を脱しきれていない彼の肉体を両腕にかき抱き、どくどくと血があふれ続ける彼の喉元を強く押さえた。彼はもう息絶えていた。身体から血が抜けていくせいで、彼の肌はいよいよ青く透きとおり、それは鮮血に彩られた寝室で異常な輝きを放っていた。

俺は粘り気を持つ血にまみれ、悲鳴をあげながら、既に死んでしまった王子の虚ろな瞳を覗き込んだ。そこには守るべき王子を死なせてしまった若く勇ましい騎士の、絶望と恐怖に満ちた顔が影を落としていた。