「邂逅インシデント」
インシデント(事件)回。インシデントとは近年アクシデント(事故)の起こる一歩手前の状況をインシデントと表すこともあるようで、ここから水鵠衆は色々と舞奏の世界にアクシデントを起こしていくことになるので、始まりはインシデント。ところで、水鵠衆はサブタイトルが一番付けやすい。一番難しいのは闇夜。ちなみに今読み直してわかったけれど、完全に二部に入ってから文字数が増えているので、語るものも長くなっていくのだった。
阿城木入彦はそのまま豊城入彦命からきており、かなり有名な英雄なので人物造型を元にしやすかった。父親は崇神天皇、母親は遠津年魚眼眼妙媛。阿城木の部分はまた別の人物なのですが資料をあたって追記しておきます。阿城木はかなり現実的で真面目なので、舞奏に関する勉強をしていても家を継ぐのに支障が無いとみなしているからこそ大学で好きな勉強をしている。けれど、そこで成績が悪くてもいけないから上位。
七生千慧本格初登場回。やっていることは反逆だけど、前向きで爽やか。口上がめちゃくちゃ格好いいなあと思いながら書いていた。水鵠は反逆者だけどヒーローだから、口上が格好良くないとなと思っていた。
「霹靂」
御斯葉衆もかなり当地の伝説などを参考にして作られているので、キャラクター設定自体が後半の展開から逆算して作られている。夜叉と夜叉憑きのキャラクターにしようとは早くから思っていたのだけれど、こういった関係性じゃなく『燃えろ!熱血リズム魂 押忍!闘え!応援団』みたいな超強いバッファーと特定状況下のみ超火力のアタッカーみたいなスポ根ヤンキーのキャラクターが第一案としてあった。色々考えた結果これになったわけだけれど、この案だと鵺雲はどうやってそこに絡む予定だったのだろうか。
この一話のテーマは「ハッピーエンドの続き」で、佐久夜が手を差し出して巡がその手を取った瞬間に終わっていたら上手くいったのに、人生は続いていくから仕方がないね。という話だった。幸福が長くは続かないことを巡は十年前のあの日の翌日から覚悟していたので、次の瞬間には終わっていた夢ではある。幸福を終わらせにきた雷なのか、不幸を終わらせにきた雷なのかがこの時点ではわからない。
鵺雲がかなりご機嫌なのは、これで比鷺が舞奏をするようになる! と思って浮かれているから。やる気を出してくれると思っているというよりは、九条鵺雲が抜けたら九条比鷺が入るのは自明の理だと思っているから。果たしてその目論見は当たる。経緯はどうあれ間違えなければ関係がないから。鵺雲は萬燈夜帳と組むのは自分のはずだったんだよ〜と吹聴して回っているけれど、本人に知られたら嫌な気持ち。闇夜に昏見がいなかったらそこそこ闇夜はお気に入りの舞奏衆になっていただろう。
「九尾フォークロア」
フォークロア。言い伝え回。水鵠は本当に筆に一切悩むことがなく、数時間で書き終えることが多かった。会話などが闇夜とは別ベクトルで軽快だったのもあるかもしれない。「言われたらやるが、言われないと出来ない」はこの時点の阿城木にとってかなり重要なところで、実は水鵠にはこういう細かいルールが仕込んである。他の衆に比べてもかなり伝奇の味が強い。と思ったけど御斯葉もかなり強かった。
去記の口調、今読み返してもなかなか可愛く仕上がっている。音にした時に可愛い台詞が多くてお気に入り。「我、小さい主の方が好きだな~」が特に気に入っている。捏造が罪であるとする國はここだけではないので、他の國では全く別の形で言い伝えられていると思うが、上野國では殊更有名。拝島家がいるから。去記はそんな上野國の伝承を読み込んで九尾の狐のキャラクターを一人でずっと練っていた。
「咎人」
書いている人間自身は先を知っているからあまり感じていなかったのだが、改めて読み返すと負荷の大きい話ではある。御斯葉はこういう溜めがあってのカタルシスが大きい衆だったのかもしれない。
鵺雲を呼び捨てに出来ない辺りに巡の真面目さが出ている。他家の跡取りだからね。
巡はそもそも舞奏が好きかと言われれば芯から好き、ではなく誰かの為なら頑張れるような責任感の強いタイプだからこそ、引き際を見誤るのだと思う。とことん愛を与える人間だから、いずれ壊れる。これは栄柴家の覡全員に言えることであって、そんな栄柴を無限に求め、与えられるだけ呑み込むために秘上がいる。そう考えると、巡に渇望を与えた佐久夜は歴代でも指折りで優秀な秘上。愛着を持たせたテディベアを没収するような行いは、やっぱり良いものではないのに、秘上としては正しい。
叙述トリックではないけれど、栄柴巡および栄柴家は「夜叉憑き」の家なので、ならば「夜叉」は、となると秘上の家になる。「夜叉」は八部衆での夜叉を踏襲して「鳩槃荼」という鬼神をモチーフに取っているので、細々とそこから引いている箇所がある。この時の巡には炎(雷寄り)があるけれど、水の鬼神に取り込まれるごとにどんどん後半のような巡になっていく。
普段の主従関係は悪魔と契約者のような気持ちで書いていた。いつか頭から食べさせてもらうために傅くような関係。
佐久夜が自分で思って腹の内に抱えている罪は「栄柴巡の幸せよりも彼の舞奏の方が大切であること」だけれど、その罪を問い直すまでの話でもある。佐久夜だって本当は舞奏なんかやらなくても、栄柴巡がそのまま幸せにいてくれる方が嬉しいと言いたかったのだと思う。巡はそんな欺瞞にはずっと気づいていて、それでも佐久夜と一緒にいることを選んだ。それでも傍にいたかったから。
鵺雲は誰かを傷つけようとも、何かを踏み躙ろうともしない。自分のやりたいようにやって、それが結果的に誰かを傷つけてしまった時に、それをまったく気にしないだけ。だから、この頃の鵺雲も別に巡に悪感情はない。むしろ好き。
「千思万考インフルエンス」
櫛魂+水鵠話。インフルエンス(影響)回。本編を進めつつ一部の二衆の話を進めようという回。これは単に今だったらこうする、という話なんですが、もう二衆合体とかではなく、文字数がかさんでも同時並行で櫛魂・闇夜の話も書いておけばよかったかもしれない。今の筆の早さならいける。こうして見ると、あの頃はスローペース。
七生千陽は、色々なことを踏まえると本当にすごい状況に置かれているけれど、本人は普通におだやかで幸せな生活を送っている。不在すら知ることがない。むしろ、三言の方がずっと、この時間に思うところがある。七生不在の影響を受ける三言。
鵺雲のインフルエンスを説明する回でもある。鵺雲が誰かにAをやらせたい時、鵺雲はその人がAをやらざるをえない状況を作る。そして、Aを行ったその人を赦し、褒め、時には揺さぶって自分から離れられなくする。巡と佐久夜に同時にやっているのが御斯葉衆。比鷺は誰より鵺雲のやり方を熟知しているけれど、熟知しているのに逃げられないので一番苦しい。
味覚伏線回。阿城木と七生のやりとりは好きに書けるので好きです。皋と昏見の会話を書いている時と同じくらいするする書ける。
七生が遠流を見た時の悲しみとつらさはそれこそ、遠流が三言を見た時のやりきれなさと同じものだ。自分のせいで失われてしまったもの、変えられてしまったことをテレビを通してずっと見させられている状況は、七生にとって包囲されているようなものなのだと思う。でも、そういった悲しみにだけ目を向けていると、遠流がアイドル活動に見いだし始めた楽しさに気づかない。嬉しかったかもしれないCMのことも。
魚媛、入彦が食べない方面のものをドカ食いしてくれる千慧の良さにどハマり。量だけなら入彦も食べるけれど、系統が違うと楽しい。
「遠想の不始末、そして夕凪」
闇夜+御斯葉回。
拝島去記と皋の会話はものすごく書きたいところだったので……割と思い入れがある。名探偵の解決の是非というのはどれだけ探偵がいい探偵であっても付き纏うところなのではないか。
>「ごきげんよう! 全世界待望、登場するだけで全米が泣いてスタンディングオベーションともっぱらの噂である私ですよ!」
昏見の与太の中で一番覚えている台詞かもしれない。
闇夜衆は果たして昏見にとって海を求める誰かのためのコテージになったのか、塩害に負けず耕され続ける田畑になったのか。
巡と佐久夜の楽しい食事回。巡の「嫌な予感だけは当たる」が出ている回。巡が嫌な予感を覚えている時は当たる。
『佐久夜の食事量がいつもと変わらないことが安らぎだった。自分以外の人間と先に食事を取っていないことがわかるから。』だけど、そもそも巡は自分以外の人間と過ごす佐久夜のことなんか知らないから、自分と食べる適正量、以上の量を食べられるかどうか知らないし、佐久夜は巡に隠し通すためなら、その腹にいくらでも収めることが出来るから、この安らぎも意味がないものかもしれない、と聡明な巡は気づいている。栄柴巡は聡明だから苦しい。
不出来だからこそ兄に甘やかされている弟、というのは相模國外かつそこそこ舞奏に近しい人間達の比鷺への評価。出来ない子ほど可愛いんだろうね、くらいの意味合い。
雷はそれこそ雷三神社などからも引いているのだが、雷に対する印象が昔と今ではかなり違っていて面白い。ちなみに雷三神社は豊雷命神社、豊雷賣命神社という二社相殿の社に、「天神山中の雷塚に在り、地主神と称す、社なし」の生雷命神社が合流したものです。この辺りも舞車の伝承に影響を与えたのではないかと思ったがそうでもないかもしれない。
「お前も少しくらい建前を使え」巡に言うにはつらすぎる言葉なんじゃないかと今さらながら思う。
最後の段落は、もう何もかも変わっちゃったなと巡が思っているからこそ出てきた言葉だと思う。何もかも変わったのに、そんなことまで言われたら。
「贖罪ページェント」
ページェントは土地の歴史上の事件や人物などを舞台や山車の上に絵や人形であらわすこと。または野外劇。去記の「九尾の狐」は自分の為のフィクションであるけれど、それと同時に自分を救うものでもあるし、贖罪の為の催し物でもある。拝島去記の存在そのものが、かつての上野國で起きたカミを欺く忌まわしい事件が事実であることを伝えている上に、拝島事件はそれを現代で再演するような事件だった。こうしたことから、果たして因果というものや生まれからは逃れられないのか? というテーマでもある。阿城木の地元の代表という立場も、化身が無いことも生まれであるし、そこを打破する為にどうするか? というのが水鵠。
阿城木はロールプレイに熱心な方というか、人の設定にかなり丁寧に向き合う方なのだけれど、それは自分が「化身」というものに憧れを抱いているから。ロールプレイとか設定がその人の夢の形だと知っている。だからこそ相手の設定にも全力で乗る。とはいえ、阿城木が本質的に物凄くごっこ遊び大好きタイプであるのもある。世界観に入り込むのが好きだからTRPGとか好きだろうな。
去記ファンクラブの中で最も貢献度が高いのは恐らく税理士の信者。げに恐ろしき箪笥貯金。はて……狐に税金や銀行口座のことなんかわかるはずないであろ……?
「化身の出る水」の恐ろしいところは、一ケース三万円まとめ買い割引有りの値段設定ではなく、買った人間の威信に関わるところだと思う。阿城木入彦と阿城木家の圧倒的な人徳がなければ「あんなものに頼ってまで浅ましい」という評価になりかねなかった。そうならなかったのは地元の人達だってどうにかして入彦に化身を、と願っていたから。
嘘つきなら嘘つきなりに人を幸せにすることの矜恃、というものについてよく考えたり書いたりしている。因果はどうしようもなくて、呪われている拝島去記はやっぱり嘘つきになってしまって、でもどういう嘘つきになるかは選べるんじゃないかという抵抗の話。去記は結構シビアに「大人」をやっている。