マチルダ 悪魔の遺伝子

全編が生成AIによって生成された映画。
極めて実験的な映画であることは理解していたつもりだが、その予想を超える惨憺たる有様だった。
まずシネマトグラフィーが存在しないため、カット一つ一つに情報が全く存在しない。
上映後舞台挨拶で「ミッドジャーニーによる紙芝居動画が原型」と言っていたが、そのままその紙芝居をキーフレームにして動かしただけのような画だった。紙芝居の一枚絵と映画のカットは根本的に違う。
カット割りも意味不明で、建物内観→車から降りる主人公→建物外観→建物の中を歩く主人公、のような気持ち悪い順番の箇所がいくつかあった。
英語音声に日本語字幕だったが、音声と表示タイミングがズレていたり、映画的ではない記法があったり、とても映画館のスクリーンで上映されているものとは思えなかった。
脚本も酷く、骨組みの一貫性(後述する)は感じるものの、ディティールがなく話が飛びすぎる。レトリックのないただの感情の記述で、表層的な感情をペラペラ喋っているだけなので(AI生成の音声で!)全く掴めない。
映像にも音声にも没入するための情報が全く無く、すべての描写が唐突に感じる。映画なのに、見ている感覚としては出来の悪いラジオドラマのようだった。
ただ、少なくとも作品全体の骨組みは一貫していたので飽きはこなかった。
その骨組みとは、ミサンドリー(男性嫌悪)だ。
本作は「人間のオスにだけ存在する暴力遺伝子を根絶しようとした結果、男性が絶滅した未来世界」の話である。
この設定だけならまだいいが
最初から最後までこの思想が否定されることがない という点が衝撃的だった。
男性は戦争、貧困、虐待、暴力、この世界の諸悪の根源で、男性のいない世界はユートピアである、という思想は作中のヴィランの思想ではない。
作品自体がこの思想の上に立ち、そこを出発点として「男性は諸悪の根源だからこの問題を一緒に考えていこうね」という説教くさいメッセージを放ってくる。
男性側に立ち、観客の代弁者となる存在がおらず、男性が諸悪の根源であることがあたかも当然の事実かのように進行するせいで、正義感と優越感の混ざった一方的な押し付けにしか感じなかった。
この作品はあまりにも主観的な思想に突き動かされすぎている。
劇場で唯一販売されていたグッズが「暴力遺伝子を抑えるお札シール」であり、上映後の監督舞台あいさつで「暴力の遺伝子を感じた時はペタッと貼ってくださいね」と明確に述べていた。
この作品の思想性は映画のストーリーとして作られたものではなく、監督の思想をそのまま映画という方法で表出させているにすぎないことは、この発言から明らかである。
途中やけに艶のある肌の上裸の男性が女性に接客しているシーンがあった。
現実世界に存在する女性性の搾取(と監督が理解しているもの)を、男性に置き換えることで自覚的にさせ内省を促したかったのだろうが、そもそもとして「やけに艶のある肌の上裸の男性/女性」が存在することは問題ではなくて、現実でもフィクションでもやりたければやればいいし好きに表現されるべきだ。
個人的にはこのシーンでいい気分はしなかったが、だからといってこの表現や現実の存在を否定するかどうかとは全く別問題である。
エンドロール前、女性に対する暴力の国連統計や女性器切除(FGM)の統計が淡々と表示されたときは、観客から鼻で笑う声が聞こえた。この反応が示すように、映画という強力な媒体を使い、いち属性の主観的な思想を一方的に主張したところで、問題や対立が解決の方向に向かうことはない。
観客に思索の余地を与えず、極端な思想を見せつけ反省を強いる構造は、SNSならまだしも劇場のスクリーンを使って主張するべきこととは到底思えない。
思想は自由で、表現も自由なのでこの作品の存在を根本的に否定はしないが、少なくとも不快で面白くない作品だと感じたのは間違いない。
12月20日(池袋シネマ・ロサ)
毎月まとめている映画・アニメ雑記の一部ですが、やけに凝ってしまったので分離させました。普段はここまでちゃんと書きません。