相手が男として、女として、魅力的かどうかなんて考えたことがなかった。目の前の素敵なその人がどんな服を纏い、どんな言葉を使い、どんな考えを持っているかの方が、ずっとずっと気になって仕方ないことだったから。
可愛いもカッコ良いも、面白いもやさしいも、男女問わず使ってきて、それが当たり前だったものだから、男性に使うには相応しくないだとか、女性だとおかしい、変だとか、昔はよく指摘されていたけれど、納得できるような要素もなければ、しっくりくることはなかった。今更ながら、性別というフィルターをかけずに生きてきたのだと思う。
とはいえ私は性別も見た目も相手が見たまんまで、所謂そうではない自分を正確にすべて伝えるには、時間や力が足りないことを理解している。色眼鏡で相手を見なくても見られていること、これもわかっている。コミュニケーションは繊細だから、誤解が少ないように振る舞う。配慮を怠らない。歪みが生まれてしまわないように。距離を誤ってしまわないよう。いつだって、思ったままの、自分の都合の良い世界を認識してもらえることは、奇跡だと知っている。
生物学上的な意味の部分で相手を認める感性がないものだから、彼の人にとってそれが表現で武器であるならば、わからなくてごめんなさいと思う気持ちもある。だけど私には男であること、女であることに、さして興味がないのです。この目に映るその姿はひとりの人間で、個のあなたが特別で魅力的に見えるから好きなんだって、心から思っていることが、どうか許してもらえますように。恋にも愛にも悩まない。全部一緒に混ぜてしまったので。
やさしく親切に、身を切るように接してくれるみんなが好きだという話。