自転車の中にいる

T長
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公開:2025/12/8

自転車の中にいる。どういう事かというと、先ほどまで人間の形の体をして、自転車を漕いで本屋に向かおうとしていた俺の意識、意思が、いまはその、自分が漕いでいた自転車の中に宿ってしまったのである。しかもなお悪いことに、自転車を漕いでいる俺の人間の形をした体が自転車を漕ぐのをやめないので、俺はどこへ向かっているのか自分でも全くわからないまま、俺だった人間の体を乗せて、荒川の長い橋を渡って冬の空気を切り裂いて疾走し続けているのだった。

困ったことではあった。しかし、こうなってしまった以上どうしようもないことでもあった。自転車の形の体というのは、自転車を漕いでいる人間の形の体が操作しない限り、曲がることも止まることもできないからである。何度か試みてみたがすべて徒労に終わった。自転車は意思があろうと何ひとつ己の体を己で動かすことはできない。

一方、人間の体はどうだろうか? 心臓の鼓動は意思ではどうにもならないし、皮膚の代謝で皮が剥けるのも意思ではどうにもならない。では自転車を漕ぐ脚は?少なくとも、つい先刻まで俺のものだった人間の形の体の脚は、意思通りに自転車を漕ぐことができた。ハンドルを操作する腕もだ。逆にいえば意識のない空っぽの状態のまま何にも衝突せず、転倒もせずに自転車を漕いで、今、このように堆肥のかぐわしいあぜ道を突っ切った先のごちゃついた住宅街を右に曲がるなどという芸当は不可能だ。意思がなければできない。だから、かつて俺のものだった俺の人間の形をした体から、なぜか俺の意思が自転車の体に移ってしまった今この状況においても、俺の人間の体には何らかの意思が宿っていて、明確に自転車を操作しているのは間違いない。そう確信した。

誰なんだ 俺の体に いる奴は。思いがけず俳句になってしまったが(bikeだけに?)、よく考えると季語がないのでこれは俳句ではない。ただの575のリズムだ。このような取り止めのない思考を続けているのには理由がある。自転車には口がないからだ。もしも自転車の体に口があれば、俺はとっくに、俺を今漕いでいる人間に先ほどの575を尋ねたであろう。人間の体であった頃は、ほとんど他人と会話することがなく、コンビニの店員の「お弁当温めますか」に対して「あっ、大丈夫です」ぐらいしか発声する機会がないまま数ヶ月経つということも珍しくはなかったから、口がない不便に気づかなかった。だがやはり口がないのは不便だ。それを痛感している。

いや、たとえ自転車に口があったとして、それでお前は誰だと問うたところで、いまこうして自転車の俺を漕ぎまくって爆走している、俺のものだった人間の体に宿った何者かが素直に応えるとも思えない。この体にいま俺の代わりに入っている何かと、まったく話が通じる気がしない。そもそも、俺を自転車の中に入れた張本人かもしれないではないか。だが、何のために?

ショッピングモールには目もくれず、陸橋をくぐって俺と俺を漕ぐ何者かは坂を降りてゆく。ランダムに走っているわけではないように思う。俺が通ったことのある道ばかりではある。俺を漕ぐこの何者かは、俺の生活圏を知っている。こいつは俺の生活を調べ尽くし、俺の知らない魔術めいた方法で、こうして俺を自転車に閉じ込めてまんまと俺に成り代わったのではないか。成り代わる? 俺に成り代わって何の意味がある? 稼ぎも微々たるもの、コネもなく、人付き合いも悪く、友も少なく、やめよう嫌になってきた。そうだ、俺に価値がなくとも人間の形であれば誰でもいいのかもしれない。例えば警察に追われており、他人として生きたい犯罪者だ。しかしもし俺がそうした犯罪者であったと仮定して想像するに、俺なら俺を選ばない。少なくとももっと裕福で、職務質問をされる回数の少なそうなものを選ぶ。もっと見た目も清潔感があり、服のセンスもよく、やめよう嫌になってきた。待てそうだそうだ、友や恋人がいればそれだけ他人に成り代わりを疑われる可能性が増えるではないか。だからそうした人間関係の極めて希薄な俺を選んだのだ。嫌になってきた。しかし依然としてカネの問題は残る。自慢ではないが俺には金がない。俺の身辺を調べたのであればそれぐらいはすぐわかる。住んでいるアパートの築年数、そして家賃の安さ、駅からの遠さ、であるにもかかわらず車の不所持、やめよう嫌になってきた。

だいたい犯罪者が他人に成り代わったときにまず最初にする必要のあることはどう考えても財布のチェック、ATMで金を引き出す、など金銭まわりの諸々ではないのか。健康保険の有無だとか、そういうのも一旦家に帰ってやるべきことだろう。なのにこの何者かはこうして俺を漕いでのんきに何処へと向かっている。一体なんのために俺に成り代わったんだ。もっとするべきことがあるんじゃないのか。

薄気味が悪くなってきた。こいつは一体、どんな目的で、もともとどんな奴で、俺の体をどうしようというんだ。一刻も早くなんとかしなければならない。ここにきて激しく焦燥の念に駆られた俺は、道沿いの柔らかそうな草地になんとか転倒できないかと必死に試みた。自転車である今のこの体が壊れたら俺はどうなるのか、乗っている俺の体は無事で済ませられるのか、そんなことよりも今すぐこの状況をなんとか変えたい。どうなってもいい。俺は自転車の体が片側に大きく傾く姿を強くイメージした。

結果は惨敗であった。自転車は己の力で倒れることすらできない。ということはつまり、かつて俺が自転車に乗ったまま無様にひっくり返り、俺のせいではないかのように自転車を罵って舌打ちをしたのも、完全な誤りであったことが証明されたことになる。

あの時は確かに、自転車が俺の操作と矛盾した動きをしたから倒れたように感じて、とっさにそのようなふるまいをしてしまった。そして、数分後に「自転車に意思があるわけでもあるまいし、そんなことがあるわけがない」と結論付けた。だがその結論に至る推論すら、俺は間違えていたのだった。自転車に意思があるかどうかは無関係だ。完全に、あますところなく10割、俺の操作が拙かっただけなのだ。もし自転車に意思があったとしても、自転車は俺を転倒させることができない。それをいま、俺は心から理解していた。すまないことをしたな、と改めて思った。

もし自転車に意思があったとしても。俺はたった今流した自分の思考を再度手繰り寄せて繰り返した。もしも自転車に、最初から、意思があったとしたら? だとしたら、俺が自転車に入っている今、その"最初に自転車に入っていた"意識は、どこにある?

俺は俺を漕いでいる人間の体の顔を見ることはできない。ただ、乗っていることを感じているだけだ。それでも俺が、俺に乗っている人間の体がもともと俺のものだった体であり、赤の他人の体ではないことを確信しているのは、自転車を漕いでいた瞬間と、自転車の中に入った瞬間の間にラグが存在しないからである。俺は自転車を降りてはいない。乗ったまま、一瞬で、乗られる側になった。

つまりこれは、俺と自転車の意思が一瞬で入れ替わったと考えるのが最も自然なのではないか?

あまりに荒唐無稽な結論に自分で笑い出しそうになった。しかし自転車に口はないから、実際には静かなものだ。静寂を意識した俺は俺を漕ぐ人間の体の息がかなり荒くなり始めていることに気がついた。当然といえば当然だった。これまで少しも休まずに自転車を漕ぎ続けていたのだから。1日の大半を家で過ごしていた俺の体に体力があるはずもない。このような酷使をすればすぐに参ってしまうに決まっていた。

お前は自転車なのか? 口がない俺は声に出せないまま無意味に意識の中でだけ問いかけた。もちろん返事はない。伝わってもいないだろう。自転車かもしれない人間の体はただ俺を漕ぎ続けている。お前はどこに向かっているんだ。行きたいところがあったのか。行きたいところがあっても、声にも出せず、曲がることもできず、転倒することもできず、ずっと俺に乗られて漕がれていたのか。

自転車かもしれない人間の体が、急に俺を漕ぐのをやめ、地面に足をついた。俺たちの目の前には、店があった。自転車屋であった。自転車かもしれない人間の体は、俺の財布を勝手に開けて、自転車の車輪のスポークにつけるLEDの光るやつを買った。

@t_chow
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