授業3コマ、合間に卒論発表の見学と事務作業。
ハーマンのラブクラフト The Colour out of Space論。ハーマンは「クトゥルーの呼び声」論における鋭角と鈍角をめぐるありえない角度の記述にユークリッド幾何学の基盤を掘り崩す要素を見出し、The Shadow out of Timeでの非ユークリッド幾何学的な建造物への言及と絡めて称賛している。それと関連してこの論では、遠近法や明暗法が誤っているとか、色覚が「病んでいる」といった記述に焦点が当てられる。人間が目を使って何かを見るときに前提とされている感覚に起きる失調という点では共通するそれらは、幾何学の基盤の失調をめぐる議論ともおそらく繋がるもので、人間の知覚様式の前提そのものが揺るがされる感覚におそらくハーマンは、オブジェクトの退隠やら間接的なアクセスといった自らの鍵概念との共振を見出していると思われる。そのほか、暗示の暗示allusion on allusionの二段構えに注目した議論も興味深い。この辺りはリゴッティがより複雑化、精緻化する形で展開している視点だろう。
さらに、コーヒーか紅茶か、リンゴかみかんか、といった組み合わせと異なり、完全に相互に無関係な二つの現実性からの二者択一を強いるものとしてラブクラフトによって特徴的に用いられる、orの用法についての議論も滅法面白い。ハーマンは、このラブクラフト的なA or Bはシュールレアリスト喜劇の領域に入ると述べているが、そのあたりの感覚はなるほどたとえばハーマンはわざわざ言及していないが、ミシンと蝙蝠傘の例などを考えても納得いくもの。こうした言語をある臨界点まで酷使するような使用法のなかに、恐怖と表裏一体となった笑いの感覚が表れてくることには、個人的にずっと興味がある。たとえばいがらしみきおが「ネ暗トピア」からホラーへ向かっていった流れなども想起されるところ。
kindle読み上げで聞いていた菊地成孔『戒厳令下の新宿』で、「志村友達」最終回の優香について書いていた部分があまりにも素晴らしく、信号待ちで少し泣いてしまう。スタジオの優香は、看護婦のコスプレをしたかつての自分が、老人役志村の尿を尿瓶で採取してあげたあと最終的にその尿を志村の頭上からぶっかけるコントの映像を見直しつつ、気丈に涙を堪える。彼女の度量の大きさと、志村のスケベと老いと死と。諸々の告発騒ぎと比べてなんという奥行きの深さと豊かさか。久しぶりに良いエッセイを読んだ。
リゴッティ "Alice's Last Adventure"。語り手は、『アリス』を愛する悪戯好きの父がモデルの悪ガキPreston Pennを主人公とする人気シリーズを手がける女性児童文学作家だが、近年は酒浸りで新作も書けずにいる。葬儀に出席するためかつて幼少期を過ごした地元に帰った彼女は、次第に虚構と現実、過去と現在の境界を危うくする数々の奇妙な出来事に見舞われ、混乱の度を深めていく・・・。
父や地元の知人がモデルとなってもいる「アリス」的な連作小説の世界と現実の区別が失調していく過程が、とりわけ『鏡の国のアリス』由来の鏡のイメージを効果的に用いつつ語られる。幾重にも重ねられた現実と虚構の影響関係はかなりややこしい。アリスが鏡の向こうの世界での部屋は、元の世界の部屋ほどには片づいていないnot as tidy」と語っている場面を朗読する父の声がびたび回想されるところは実に印象的。かつての知人のブヨブヨの死骸、消えた若い男などの細部も気持ち悪くて良い。語り手がバーで捕まえた若い男に手を出しその男が翌日消失する流れには、ドジソン=ルイス・キャロルのペド問題と、そもそも朗読中にアリスに準えられつつ父も重なってくる語り手の別人格が出現する展開も重ねられており、重層性がとんでもないことに。
思い立って電話してみたら営業を再開していた、ここ数年一番好きな洋食屋菊名サンロードへ。電話口で給仕さんの気持ちの良い声を聴いただけで泣きそうになってしまった。ヒレステーキセットに生がついて2,500円。相変わらず安くて美味いし、あらゆる飲食店で一番心地よい距離感の接客も健在。常連の家族連れへの接し方を聴いているだけで嬉しくなってしまうので、ここで食べるときは絶対にイヤフォンはしない。とはいえ給仕さんは腰を痛めており、シェフは年末にしばらく入院、そのためしばらく店を閉めていたとのこと。そういえば、シェフの発声が心なしか普段より大きかったように感じたが、どこか気合を入れ直すような心境もあったのかもしれない。聞けば給仕さんは今77歳で、今年中に店は五十周年を迎えるとか。休みながらでもなんとか店を続けてもらいたいし、行ける間にできるだけ通いたい。仕事帰りに行くせいで毎回一人だが、そろそろ複数人で伺わなければと改めて。