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授業は休み。来週の授業準備を終える。『ストレンジャー・シングス』S1⇨2の移行と、VR⇨ARの移行を併置。それとスピルバーグが『E.T』『レディ・プレイヤー・ワン』『グーニーズ』あたりで提示したゲーム観を比較。S2E5「ディグダグ」の穴問題など。これで採点以外は一応ひと段落。

阿部嘉昭『詩と減喩 換喩詩学II』、ひとまず江代、貞久関連の第一部だけ読んだ。減喩と明示法(貞久)の対比について、阿部の議論や対談などから色々と考えたことはあるのだがまたいちいち書き出すと大変なことになりそうだしかといってほっとくと忘れそうだしどうしたものか。。。

減喩と明示法は、いずれも換喩的なものが隠喩的なものよりも前景化しているという前提について確認した後で、改めて貞久の三角形と他のものの比較について考えてみると、まずシャマランにおける「サイン」の場合は換喩的なものが最終的に隠喩として機能するというモデルになっていて、だからこそ作家性や主体を抹消する方向にはいかないのだろうという気がしてきた。ただ、その辺りの微妙な差異をどう言語化するかは難しい。ひとまず、ヒッチコックのマクガフィン以上にシャマランにおける「サイン」は一旦は換喩的な「なんでもよさ」に晒されているような気がしており、その結果最終的に隠喩的なものとして提示されるとしてもそこに換喩的な?ユーモアが残り続けるような印象がある。

また、今ここで詳細に検討する時間と余裕はないが、阿部の江代論はしばしば文脈を補い、より容易に読める形にいったん詩を書きかえた上で、なぜそういった書き方にはなっていないのかを考えるという構成になっており、これはハーマンのruinationの議論と非常に近い。その上で、阿部は「推敲」の過程を江代詩に見出そうとする稲川方人の議論をかなり手厳しく批判し、ただそのまま書かれたエシロ語の味読へと向かっていく。翻ってラブクラフトについて考えたときに、推敲の問題について何が言えるかと考えると、無駄に草稿などが残っているからそれらを参照した実証的研究がおそらくは存在するのだろう。わざわざそういうものを調べて面白いことが言えるのかを考えるとまだしばらくは放置でよさそうだが、一応頭の片隅にはとどめておきたい。

また、文字通りにすること、台無しにすることとの関連では、ハーマンの仮想敵がヒュームであることも個人的に重要に思える。エマソンやカヴェルにとってもヒュームは極めて重要な仮想敵の一人だったし、貞久『雲の行方』の筆致は後期ウィトゲンシュタイン以上にサールやロールズに喧嘩を売るさいのカヴェルの文体を思わせる部分もあった。ヒュームやサールのような「真面目さ」にどう介入するかという問題。今年はカヴェルのデリダ、サール批判本も読み直さねば・・・。

夜は池袋。文芸坐で城定秀夫『セフレの品格』二部作(2023)。「初恋」、用意された条件の範囲内で色々工夫しようとしているところは随所に見えてその点には好感を持った。生老病死のうち、老、病にフォーカスしていくあたりは、原作要素でもあるのかもしれないが城定監督のキャリア的にもこれまでからの変化として強調しておきたいところだったのではないか。同じ男を取り合っているはずの女性二人が金持ち女の家で談笑するところなどは新境地という感じが。主演の行平あい佳さんも非常に良かった。規範をめぐるやや説明臭すぎるセリフや上司役のベタすぎる気持ち悪さなど、いくつか首を傾げたくなる箇所もあったがおそらくは原作準拠でしょうがない箇所なのだろう。

「決意」、メロドラマとしてはあまり機能していないところと結末の煮え切らない感じが惜しいが、原作ものかつ完結していないという縛りでは仕方なかったか。二人がそれぞれ若い異性の新キャラといい感じになるのか、というフックで引っ張っていく流れだが、東横キッズみたいな女性の方は設定がガバガバすぎてさすがに厳しかった。一方、石橋侑大演じるボクサーまわりの演出はさすが。以前キネ旬企画の私的城定ベストにも挙げたはずの『タナトス』(2011)は、予算の限界で試合場面で盛り上げることがほぼ不可能だったにもかかわらず、人間関係など試合以外の演出だけで傑作に仕上げたボクシング映画として見事だったが、今回は逆に設定上はよくわからん存在をあてがわれたものの、ある程度試合場面をきっちり撮れるという条件があったため『タナトス』でできなかった方向を探究した形に見えた。そういう意味では2本ともできることをやろうという姿勢が見えて安心したとは言えるが、最近は制作規模が拡大した分なのか原作もの企画が多いのは明らかで、やっぱりオリジナルが見たいのも確か。

寝る前、児玉和士「さよなら、ジョージ・アダムスキー」(2007)。UFO・陰謀論的想像力とバディものがこう繋がるのかという驚きと、前触れなく時折挟まれるホラー要素の驚きと。柄本の夢と回想場面で反復される突然の穴への落下とタメゼロのUFO青年母の死、ボケてたはずの斉藤洋介が2階の窓から下を眺めているときの顔。『死霊伝説』とか『ストレンジャー・シングス』とかもっと遡れば地球空洞説がらみのあれこれとか、穴とホラーの関係をどう考えるかもなかなか面白い気がしてきた。撮影も出色もので、UFO青年が公園でスカートめくりしてそこから柄本とダッシュで逃げるところを徐々にカメラを上げていって俯瞰の長回し横移動で捉えるところは良すぎた(撮影:月永雄太)。ラストの光とUFOの二重性からはロメール『緑の光線』を思い出しもした。陰謀論を含んでしまう信じることの全体を否定せず、全肯定もしないバランス感覚には心霊ビデオファンと長年付き合ってきた優しさ?も垣間見えたような。