朝は卵ベーコンウインナーヨーグルト。足拭きタオルやスリッパなどを洗濯。
日向でごろごろしながら江代充詩集を最後まで。空間に加えて、かつてこの地元の道を歩いた複数の時間が畳み込まれているような書き方にも惹かれるところが多かった。稲川方人の「推敲」、中村鐵太郎の過去や記憶と関わる「表記」に焦点を当てた詩論にも触発された。こういう批評はなかなか書けない。
予定をやや変更して夕方からまた早稲田松竹へ。貞久秀紀『雲の行方』を読み始める。江代詩集をなぜ買ったのか忘れてしまったが、貞久関連だったような気がしたので。単純な体験を記述するひとつのあり方としての明示法の内実が、後期ヴィトゲンシュタインを思わせる断章形式で綴られる。観察の結果を記述する(写生?)中で、すでに見えていたもの、慣れ親しんでいたものを同一物のまま対象として再発見する、とでもひとまずは要約できるであろう過程は、たとえばラカンが好んで引く漁師のエピソード(空き缶が私を眼差し返す)やデュパンが盗まれた手紙の謎を解く過程(ポー)、郡司ペギオ『やってくる』のロジック、シャマラン映画において水の入ったコップに見出される「サイン」など、さまざまな例を想起させる。AIには実装できないバグに喩えられるかもしれない「既知との遭遇」の経験こそが、人間が主体としての自己を再発見する過程にもなる、という方向にまで展開させて考えていけたらもう少し面白いことが言えそう。
本の内容とリンクするかのように一本目の石田民三『むかしの歌』(1939)は一年半前に観たものの再見。脚本の凄まじさには初見時に散々驚かされたが、今回は関西弁の速射砲のようなリズムと編集のリズムの共鳴ぶりなどに注意が向いた。あとは、単に簡潔というのとも違う、没落した父親が刀で物干し竿斬った直後に手車疾走につなぐところや、橋の上から投げ捨てた風車が川に落ちて回転する様子をそのまま捉えたショットなど、シーンとシーンをつなぐところの運動にもハッとさせられる部分があった。
清水宏『簪』(1941)。昨年ミラー先生が是枝シンポの発表で抜粋を流していた作品だったことに途中で気づく。一切勉強する気のないクレーマーで噂好きの先生が面白すぎるし、セリフが覚えられなかったのかそもそも狙い通りなのかすらもわからない、ひたすら怪我をした中年にスパルタリハビリを強要する子どもたちの「おじさん、頑張れ」の過剰すぎる反復が最高。過酷すぎる川渡りはロケハンして画として映えるから入れたものなのか、物語上は特に必須ではないものの鮮烈すぎるイメージ。笠智衆の若さにも笑うし、彼を田中絹代がおんぶするところはホンサンスが初期作で引用していたのか、という気もしてきた。田中絹代が最後の階段登りテスト場面だけ、(別れたくないゆえに)全然応援しないどころかとんでもない表情をしていたところも素晴らしかった。笠智衆が帰ってしまった後に再び同じ階段に向かいそこをいわく言い難い表情で登っていくラストも見事。田中絹代と階段といえば小津の『風の中の牝雞』だが調べてみたら48年でそっちのが後の作品だった。本作ラストの不気味さをより過剰に展開したものが小津作、と見ることはできるかもしれない。ふと、以前階段の使い方が印象的だった『パラサイト』の取材でインタビューする機会があった際に、ポン・ジュノ監督が階段映画祭をやりたいと話していたのを思い出した。