4月からは忙しい年度になることが確定しているのでいつまで続くことやらという感じだが、今年から久々に日記をつけてみることに。
大晦日映画館締めは昨年に続きシネマヴェーラ。ロバート・ロッセン『ボディ・アンド・ソウル Body and Soul』(1947)。去年の年の瀬感に溢れた『フレンチ・カンカン』と比べると嫌がらせを疑うレベルの暗さ。冒頭に気が滅入る未来が提示されてから過去に遡っていく悪意の塊のような脚本に当てられる。こんな日に観るもんでは・・・とは思ったものの記憶に残る厭な映画の一本になった。気温も高くいまいち年末っぽさを感じないまま、たまたま会った友人と合流して近くの適当な飲み屋でほぼ無音の紅白を眺めつつ軽く飲み、当然なんの予約も下調べもしていなかったものの急に年越し蕎麦が食べたくなり、駅近くの立ち食い蕎麦屋に寄って解散。
正月映画初めはこちらも昨年に続き早稲田松竹。たいして調べずに行ったらどちらも暗すぎるサイレントメロドラマで正月気分とはほど遠いダウナーな幕開けに。成瀬『夜ごとの夢』(1933)、180度ルール輸入以前だというのはわかるのだが今観ると異様さが際立つ撮影。縦構図での正反対からの切り返し頻発にも面食らったが、速すぎるトラッキングのバカズームイン・アウトがとにかく面白い。当時の歌舞伎とか舞台のノリに近づけようという工夫だったのだろうか。なぜか格闘ゲームの必殺技演出を思い出したりも。五所『恋の花咲く 伊豆の踊子』(1933)。原作の細部はさすがに完全に忘れているが、田中絹代の兄のゴミぶりと気持ち悪さは明らかに川端由来のものではない脚色だろう。お前のプライドのために妹を売ろうとするなよ...。体感ではちょっと長すぎ。なんでわざわざ短い原作に肉付けしてこの尺にしようとしたのか...。年末年始に観た三本はどれも男たちが意地を張って面子を優先しようとするせいで悲劇が起きる展開で気が滅入った。なんでもかんでも有毒な男性性として葬り去ろうとする風潮もいい加減にしろと思うが、面子がなにより大事みたいな発想は一刻も早く消え去ってほしい。
映画館にいる間に震災が起きていたことを知り、ただでさえ薄かった正月気分が完全に吹っ飛ぶ。近くで初詣をしたが、さすがに今年は自分の願い事をする余裕はなかった。
正月で開いている店はほとんどなかったので駅前のノング・イング・レイ。ミャンマーでは飲み屋で正月を祝う習慣があるのか、現地の方々でごった返していた。店内のカラオケからは現地ソングの大合唱が漏れ聞こえ、テレビではひたすら震災の映像が流れていた。
明日実家で家族や親戚と会うタイミングということもあり、新年一冊目は金川晋吾『いなくなっていない父』。正直読む前は『father』や関連の展示だけではよくわからない部分もあった著者の立ち位置について多少納得できるのではという野暮な期待もあったのだが、読むほどに考えるほどに著者のことも父のこともよくわからなくなる一冊で、むしろそこが良かった。バートルビーと父をほのかに重ねつつ、社会学的な読解やビラ=マタスの「仲間たち」という発想に違和感を表明しているくだりにはとりわけ膝を打った。