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貞久秀紀『雲の行方』最後まで。主に293以降にウサギーアヒル図の分析からの流れで見出される、「何か」(A)を起点にB、Cを経由して再びAに戻る「三角形の原理」に関する議論は、自分がぼんやり考えてきた色々な問題とつながりそうで大変刺激を受けた。334では般若心経の「色即是空 空即是色」が引かれるが、仏教でいえば禅宗の公案に顕著なユーモアの感覚もこの辺りの議論と関連するだろうし、逆に振ればペギオがよく引き合いに出すカプグラ症候群(既知の人物が他の人物に置き換えられていると確信する)のような、慣れ親しんできたはずの対象の同一性が揺るがされる恐怖とも無縁ではないだろう(話がずれるが、カプグラ症候群がらみの不気味さはフィッシャーが言うeerieぞっとするものと関わるかどうか、なども考える必要があるか)。

また、336の「いいかえることなしにくり返すことはできないのではないか」と言う問いからは、ガートルード・スタインの薔薇(Rose is a rose is a rose...)を想起。

352あたりからの、雲を眺めることを出発点に「今」の体験をどう捉えるかを考えるなかで未来と過去が図に導入されるところからはかなり難解で再読必須だが、ひとまずのメモ。

356では、今現在をあたかも未来に位置づけられたかのように予想、推量として知覚することと、過去に位置づけられたもののようにふり返ったり、思い出したりして知覚すること(想起)が対置される。

361 が、これらは逆のあり方をしていない。「むしろこれらは、357節で述べたように、今現に近くされているもののを遠くあるもののようにながめるというかぎりでは、その遠さにおいて同じあり方をしている。

 しかしこの遠さは、過去を遠くぼんやりとふり返ったり、未来を遠くぼんやりと思い描いたりするときの不明瞭な遠さではなく、今現にながめられている雲がその浮いているところにくっきりと知覚されると同時に、そのくっきりと知覚されているところにそのすがたのままで遠くふり返られたり思い描かれたりする明瞭な遠さである」。

368 「後知恵なしに語りうる体験があるだろうか。「何か」が感じられてそれがひとつの体験になるとして、それが語られるにはその「何か」が「何か」とはべつのことばにいいかえられて述べられねばならないのなら、それ語られた経験は、いいかえられているかぎりにおいて後知恵であるように思える」。

正岡子規「道尽きて雲起こりけり秋の山」 の経験をどのように語るか

「わたしはそのときのことをなるたけ正直に思い起こそうとして、今じぶんが語ろうとしていてすでにひとつの物語にさえなりかけているかもしれない体験をそのもとになる「何か」にさかのぼり、できうるならその「何か」をさらにさかのぼろうとするまなざしをもって語りはじめようとするかもしれない。あたかもこの体験を持ち帰って語るころにはすでに飾りがずいぶん付いてしまったので、そのやや誇張された後知恵からより簡素で単純な後知恵へさかのぼろうとするかのように。

 ここでは、後知恵は語らざるべきものではなく、後知恵こそが語りうる唯一のものであって、むしろそれがいかに語られうるか、あるいはいかに語られえないかが大切であるように思える」。

「明瞭な遠さ」から「後知恵」がいかに語られうるか。「後知恵」という言葉からは精神分析の事後性の議論が思い出されもする。AIには後知恵という概念はないのでは?など。

380-382

380 356の人の雲のながめ方。「このときわたしは、それを思い浮かべているかのように見ているのだろうか。それとも思い浮かべているのだろうか。わたしにはふたつの問いの違いがわからない」。

381 「このような思い浮かべ方からすれば、わたしは「今浮いているあの雲は、十数年前にはまだなかった」とはいわず、「今浮いているあの雲は、十数年前にはすでになかった」ということができるように思える。

 それはあたかも、わたしが「今」浮いている雲をながめるときは「今」が未来からふり返れば十数年前のこととしてふり返られるので、その未来からながめればその十数年前の「今」はすでになく、そのすでにない「今」において浮いている「あの雲」もすでにないといっているかのように聞こえる。当のその雲は「今」現にあの前方の空に浮いていて、見えているのに。」

382 「したがってわたしがこの文を後になって、「今浮いているあの雲は、住数年前にはまだなかった」というようにごく一般に通じるかたちに修正したとしても、それはこの文を正しい文法にまちがえて修正したように感じられるかもしれない。

 ひとりの子供が「二年前の明日」といったいい方を覚え、覚えたての語法で話すのをよろこびとしていてしばしば使うものとしよう。このとき、「二年前の明日」はもはやもどることのできない前方として思い浮かべられていながらも、この子にとっては依然としてゆくことのできる前方にあり、希望に満ちているかもしれない明日であることはありえる。... しかし奇妙ではあるが、人間はそのようにして生きているように思える。この子の語法には正されるべき何ものもないのだとして、むしろ、この子が仮にそのような悲しむべき文脈において、「二年前の明日」というならば、にもかかわららずそれが歩んでいくことのできるあたらしい明日でもあるならば、このことばを使うときこの子は何を体験しているのだろうか。わたしはそのことのほうに関心を持つ。」

意味が通じやすいように書き直すことで、「今浮いているあの雲は、十数年前にはすでになかった」という言い方に含まれていたように思われる「明瞭な遠さ」の感覚は失われてしまう。この事態は、グレアム・ハーマンがラブクラフト論の第二部でラブクラフト作品の細部を引用し、それらを分析する際に繰り返し用いている、「台無しにする」という方法論とよく似ている。ハーマンは初学者向けシェイクスピアや超訳ニーチェ的なものを例に出しつつ、ラブクラフトの晦渋な表現を、あえて文字通りの意味を分かりやすく示す形(仮想敵としては対象を要素の加算へと分解するヒュームの発想がしばしば槍玉にあげられる。たとえば『クトゥルーの呼び声』における怪物描写をタコ、ドラゴン、人間の総和として書き換えると一気につまらなくなることなど)へと書き換えてみることで、その結果失われる魅力とは何かを考えようとする。

破格によって生み出されるホラーやユーモア、というポイントは貞久とハーマンに共通して見出すことができそうにも思う。

一日家にいるのも、ということで歩いて20分ぐらいの南インド料理屋へ。いつもはミールスを頼むのだが土日限定で骨つきマトンビリヤニが出ていたのでそちらに。当然うまい。行き帰りのお供で岡真理『ガザとは何か』第一レクチャー。最低限の知識すらなかったので今更ながら。

白石晃士『ほんとにあった!呪いのビデオ The Movie 』(2003)。全て最後の映像への前フリと考えればアリなのかもしれないが、弛緩したインタビュー映像が続く流れはなかなかしんどく、80分強でもかなり長く感じた。劇場版ならではの要素を打ち出そうという工夫から最後にピークを持ってきて、それまでは映画館の拘束力で客を縛り付けておけるという計算だったとしたらまあ理解はできるが、配信で見てしまったのでそのへんの機微もいまひとつ掴めず。最後の映像は悪くなかったものの、あまりに前振りでハードルを上げすぎた感も。