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授業3コマ、合間にzoomで学生面談2件。

授業でも扱ったハーマンのラブクラフト論について。"On Ruination"がらみのあえてラブクラフトの議論を文字通りのものとしてliteralization、台無しにすることで逆説的に彼の文体にどういった魅惑の要素があるのかを浮き彫りにする箇所も貞久的だな、と思ったが、もう一つ興味深い符号があった。ハーマンもまた『クトゥルーの呼び声」4でラブクラフトの用いる独特な比較方法を三角形のモデルで説明している。

"...the police could not but realizee that they had stumbled on a dark cult totally unknown to them, and infinitely more diabolic than even the blackest of the African voodoo circles." (CC 175)

ハーマンは、この箇所でラブクラフトがa dark cultの凶悪さをあえて the blackest of the African voodoo circlesと比較する形で強調している事実に注目する。ハーマンによれば、ここでラブクラフトは読者の誰ががあらかじめ抱いているアフリカのブードゥーに対する恐怖心に依存し、単にそのブードゥーより恐ろしいものとしてカルトを提示しているわけではない。むしろ彼は三角測量をおこなっている。要するにラブクラフトは、まず定義が曖昧な神秘的カルトから恐怖を借り受け、それをブードゥーに貸し与え、ついでその恐怖をカルトの力を増すために再び返している。

(このあたりは英語の文法や語順の問題とも切り離せないところだと思うので、日本語で説明したり考えたりする際にどうパラフレーズするかは難しいところか)

この三角形と同様の構図としてハーマンは、"The young Ingrid Bergman struck Swedish viewers as even more graceful than Anja Soderblom"といった例を挙げる。ここでは誰も知らない存在であるAnja Soderblomの存在を一旦噛ませることで、バーグマンの優美さがより強調されるが、この際、Anja Soderblomについて読者が知っている必要はないとされる。ラブクラフトの文体ではこれと同じ現象が起きているのであり、たとえば "African voodoo circles are horrific and dangerous,"と文字通り表現したところで我々は説得されない。しかし、これらのサークルを極端な比較の引き立て役として用いることは、さりげなく我々読者を納得させる。つまり、ブードゥーが引き立て役として用いられることで読者は、もしそれがアフリカのブードゥーよりもさらに悪いものならカルトは本当に悪いに違いないというだけでなく、もしそれがより悪いものとしての何かsomething else as even worseを描写するための踏み台springboardとして利用されているのなら、アフリカのブードゥーも本当に悪いに違いないと納得させられるというのだ。

これと類似する例としてハーマンはさらに、"George W. Bush is the worst American President since Millard Fillmore."などを挙げている。このケースでは、あからさまに示されるブッシュへの否定的判断に加え、フィルモアがどんな大統領か一切知らなかったとしても、読者はブッシュとの比較によって密かにフィルモアへのネガティヴな判断に同意させられるように感じられる(63)。

この三角形モデルではブードゥーやフィルモアの箇所に入る要素は極端な話なんでもよく、「より悪いものとしての何か」に当てはまる側に対して読者があらかじめ抱いている印象(バーグマンやブッシュの例なら知名度、カルトであれば曖昧な定義とそこまでの物語から受ける印象)を借り受けることでブードゥーなどに対しても悪印象が与えられる点が重要だろう。特にラブクラフトにおいて問題含みなのはここでのブードゥーへの印象操作と彼の差別意識が完全にリンクしていることなのだが、ハーマンは政治的倫理的には明らかに唾棄すべきものと留保しつつも、ラブクラフトの差別意識が文体のレベルでは効果的に機能していることにも注意を促している。貞久モデルとの比較をホラーに寄せて考えようとしたときには、差別の問題をどう位置づけるかが鍵になりそう。

夜は通っている中華がタッチの差で閉店していたため近くのよくわからんネパール料理屋へ。山羊の睾丸と羊の脳味噌というなかなかエグいものを肴にビール。

寝る前に清水崇『呪怨』テレビ版(1999)。しばらくJホラーまとめて観たい気分が続いている。キャストやたら豪華。テレビ向けだからというのもあったのかもしれないが、最も陰惨なスプラッター描写は見せず、周辺の要素をオムニバス的に繋ぎ合わせて、その不在の中心として浮かび上がらせるような構成は見事。家の呪いは高橋洋の実家二階問題から三宅Netflix版まで続くJホラーの宿題になっていくものだが、この辺も出発点の一つか。伽耶子の怖さは完全に男からメンヘラストーカー女への恐怖。時流に即して妊娠もの含めてその辺りの構図からどう距離を取るかも考えつつ、男⇨女恐怖をどう描くか、の方にも目を配っていきたい。