地味な不運に見舞われた時、イラつきそうになった際は、「厄を小分けにして発散している」と言い聞かせている。
たとえばスーパーで買った5個入のみかんが2個も傷んでいたとか
エコバッグも予備のビニール袋も持参しなかったのにレジで袋を買い忘れたとか
そういう時に限ってレジに並ぶ人が際限なく増えて途切れなくて袋を頼めないとか
そうしたフラストレーションと自らのポカに晒されて、怒りのやり場が無くなってきた時、先のように考えると、「もっと酷いことにならなくてよかった」「この程度の不運で済んだ」と思えて、怒りもイラつきもだんだん引いていくのである。
何より怒るということは、ストレスを受けている現状を自ら引きずることにもなるのだろう。長年怒りと憎悪ありきで生きて来て、そのコスパの悪さを実感した昨今だからこそ、そう思える訳だが。(同時に、自分にとってコスパが悪いと思える域に至れたのも本当に幸運あってのことなので、誰もがかくあるべしとは思わないことは明示させてもらう)
それと矛盾するようではあるが、誠実なくらいしかと芯の通った怒りや憎悪を持ち、それを論理的に言葉に出来る人が好きだ。
サウナで熱気に晒されるような心地よい熱さを感じるし、こちらの心も相応に大きく動かされる。なんなら我慢やスルーに長けていて、怒りを示さない人より信を置きたくなってしまう。
けれどきっとそれは、ヒトが本能的に持つ、共通の敵を求める欲求に基づいた共感と好感なのだろう。伴侶を選ぶ時は、嫌いなものが合致する人にしなさいと古事記にも書いてある。書いてあってたまるか。
貴方の怒りは貴方のもの。私の憎悪は私のもの。なんでもかんでも取り込んで自分のものにする必要は無いし、自らの責任に収まる範疇でだけ怒れるからこそ、その人はかっこいいのだと思う。無闇に共感と表明をしていたら、個人の怒りの責任も、その当人が持ちきれなくなってしまう。当然 第三者が、撒いたガソリンの責任を取ることだって出来る訳がない。気を付けたいところだ。
そういう訳で、私を怒らせる不運もポカも、自らの執着がもたらした憎悪も、全ては己より生じたものとして、自己の責任に於いて、自らきっちり放散していくことにしたい。
そうして怒りを悪心にせずに流せたら、その分きっといいことあると思いたいよ。