一筆一血の根幹を思う

T.O
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所謂戦国時代に確立したとされる、禅や侘び寂びの精神が好きだ。

力が無ければ生きられぬ世に於いて、力を奮うのみでは人は成らず。武のもとで生きる覚悟を経て静けさを得た心と、それを以て見いだされた静謐な美は、武人の鋭さと文化人の重みのある静けさを両立させてきた。寡黙にそこに在る作品は、ただその存在だけで、見るものに静かにボディブローを叩き込んでくる。

私は幼少の頃から龍にまつわる創作活動を続けて今に至るが、ここ数年は特に和龍モチーフの制作を軸に据えていることもあり、もっと日本的な描画や思考、デザインを取り入れるべく、今年は書籍も増やして当たってみることにしようと思っている。折角辰年だし。

最終的には冒頭のような戦国時代の文化・作品に帰結したいが、まずは墨のタッチをもっと自分の手に付け、表現を広げることが出来るようにもなりたい。そういう訳で手に取ったのが、安村敏信著「肉筆 幽霊画の世界」である。

なんで幽霊かって? 円山応挙の幽霊画に つり上がった目と裂けた口、長い黒髪がなびく姿のものがあって、うちの創作キャラに似ているなと思ったからだ。「蛇の要素を色濃く持つ、祟る元井戸守・水神」というコンセプトでデザインして描いているキャラクターだから、日本の祟るものの形を、知らず知らずにしかと踏襲し、デザインしていたことに気が付いて興味が沸いたことを切欠に、この国で古くから形にされてきた、姿亡きものの怨憎の描写の仕方も、もっと知りたくなったのだ。

学術書に慣れ親しんできたこともあり、幽霊画が描かれてきた歴史や画家の背景もガッツリ論じられていると思ったが、図録・画集として、絵を見てコラムを読む構成になっていたのは、正直若干の拍子抜け感もあった。

しかし、博物館や美術館の特設展のような、テーマに分かれた章構成、端的な解説と軽いノリでフレンドリーに絵の見どころを伝えるアオリがなかなか楽しい。というか読み進めてわかった。カルくてフレンドリーじゃないと怖くて読み進めにくい。美人幽霊画というまだ人型を保っている絵から始まり、ページを進めるにつれ、幽霊の姿はもっと悍ましく凄惨に 滲む恨みは滲むどころかあふれ出す域になっていく。導入と進め方が巧みだ。学芸員としての視点も含まれている構成だと思う。こわい。

掛け軸から夜な夜な抜け出す幽霊を斬った侍の逸話も生まれる訳だと思う。この文字通り鬼気迫る描画と、それでいて愛嬌もある日本画特有のデフォルメ、墨の濃淡だけで淡く表現された姿 どれもが決して写実的ではないのに、確かにいつかの時代に在った、今もそこに在る存在感として骨身にしみこんでくる。

その現実感はどこから と考えてはたと気づいた。かつての日本 幽霊画が描かれた時代は、今よりずっと死が身近で、絵にあるような、骨と皮だけのうつろな目をした屍もどくろも、思わぬ場所で見かけてもおかしくない環境だったのだろう。隣人としての死 遠くない将来に身近なものがそうなるかもしれない姿 明日の我が身 そんな「当事者意識」が、これだけのものを描くに至らしめたのかもしれない。ここにあるのは幽霊という未知への恐怖であると同時に、メメントモリ カルペディエムでもあるのだと思った。

自分はオカルトに触れ、祟るものの話を聞く時、畏怖と共に「自分も死んだらこうなりたい」という憧憬も抱く。そうした形の当事者意識は、表現方法は違えど、かつての画家の精神とも通じて、遠くもどことなく似た根幹を持つデザインや描画になって表れたのかもしれない。もしかして貴方も、自分が描いたものが化けて出たり、自分も死したら描かれたりしたら良いなと思ったのですか。そんなことを図録の幽霊越しに問いながら、私は私の制作に戻ることにする。

書物の向こうには時空を超えて同業者が居る。今の自分に繋がる人々が居る。時折自分の描きだしたものと、彼らが残した筆致の間に、近しいものを見出して、自分も同じ路の上に居ることを思う。自分もこの路になっていく一人なのだろう。

かつてより随分と人も国も在り様は変わったけれど、それでも自分もこの路に在りたいと思う。多くの先人たちと同じ夢を見て、共に筆を執っていたい。