タロットカードを持った。
なんということはない。前々から一次創作の民の基礎教養として嗜んでおきたかったし、好みのかっこいいカードも見つけたし。何より 多くの人に向けられた占いに業を煮やし、自分の迷いを自分で断ちたくなったのが大きい。
(勿論、多くの人に向けられたふんわりした占いは、日々の指標になったり元気づけられる切欠になったりするし、先人の知恵と膨大な事実の蓄積によって算出された答えや、その出し方を知る人の技術の価値は計り知れないことは大前提である。それはそれとしてだ。)
カードの意味を調べつつ、添付の解説を読みつつ、のたのた解釈してカードからの答えを読み解くのは面白い。きちんとカードを丁寧に扱うと、カードの出方も的確になって、現状を鋭く指摘してくれるような感覚を覚える。すべては解釈次第なのでどうとでも読めてしまうが、だからこそ自分好みの厳しいアドバイスとして受け取ることも可能である。たのしい。
そうしてぽつぽつ自分専用のおみくじとしてリーディングしつつ、勉強として先達のタロット解説や占いをYouTubeで見ていくと、カードの意味の重さや出方の特殊さも、同意や納得を以て理解出来るようになってきた。
そうなのだ。実際に自分でやってみないと、カードの出方が「これは麻雀の国士無双レベル」だとも、「一見弱いカードだが意味合いは重い」こともわからず、ぼんやりと解説を聞いて「そうなんだ…?」と思うことしか出来ないのだ。
これは何もタロットカードの扱いに限ったことではない。筋トレも、作文も、思考も、作画も、作曲も、楽器の操作も 何もかもやってみないと理解が及ばない。実際にやったことで「当事者」になり、当事者意識を持たなければ物事の理解は表層のみに留まるのだ。
無駄な当事者意識で不必要な怒りを持つことが、自分の長年の欠点であり汚点であった。だが一方で、こうして当事者意識を持つからこそ、学び理解出来ることも知ることが出来た。
何事もバランスが必要であり、注力の方向を誤ってはいけない。間違った努力は浪費でしかない。
今の自分ならそれをもう嫌と言うほど理解出来ているはずだ。ずっと間違った努力で一切を浪費してきた当事者なのだから。