普段インスタグラム(https://www.instagram.com/amen_o_tajikarao/)で読んだ本の投稿をしていて、キャプションに文章を載せているんだけれども、キャプションの文字数制限2,200文字に収まらなかったので、ここにキャプションで記載したかった内容も含めてまとめたい。
<この本から得ようと期待したこと>
共感は自分が正常だと思う対象に対して発現する。物事を正常だと判断する価値観があると言うことは、物事を異常だと思う価値観もある必要があり、「異常」の概念はどういう構造やメカニズムで発生し、人は何を以て「異常」と判断するのか。
”異常とは、正常を合理的で絶対の正しさだとする錯覚から生まれる意識。
正常も錯覚なので異常も錯覚に過ぎない。”
1973年に上梓されたこともあり、現在の感覚からすると違和感を覚える表現や記述もやや見られる。
本質的でない些細なところで言うと、現在では「統合失調症」と呼称される症状は当時の表現のまま「精神分裂病」と表されていて、なんだかおどろおどろしい感じがする。
また、現代は統合失調症は遺伝的な要因による発症も否定されていないが、著書の中ではほぼ後天性の病であると言うふうに記述されている。
しかも統合失調症の発症に大きな影響を及ぼす後天的な要素の一つとして家庭環境を挙げ、その中でも父親の役割の重要さを指摘している。
以下に具体的な箇所を引用する。
「第八章の患者(一二四頁以下)の家庭も、分裂病者としてはひとつの典型的なパターンを示している。つまりここでは、母親が女学校を出た勝気で虚栄心の強い女性であるのに対して、父親は小学校しか出ていない神経質な小心者であり、養子という身分からも、妻に対して頭があがらない。このように父親の影が薄くて母親が絶対的な支配権をふるっている家庭は、特に男の子供に対しては非常に危険な影響を及ぼすものである。(p164)」
このように、父親を中心とする家父長制の概念が色濃くあり、現在の感覚からはやや距離が離れているところに時代を感じる。
しかし全体的に見ると、クオリアの概念を用いた共通感覚の概念、「異常」だと感じる仕組み、常識や合理性の成立など、丁寧に論を展開しているように感じた。
特に「1=1」という概念は、自明的で根源的であるにもかかわらずその証明は困難を極めるという常識の持つ特徴を端的にかつ鮮明に表現している。
また、常識の特徴を表す表現に加え、自己と他者との関係、他者論としても応用されうるダブルミーニングな術語であり、そのシンプルさが故の汎用性の高さは鮮やかとさえ形容されうるだろう。
「共感」というテーマから見ても、「一と全」と対置する「1=1」という概念は、自己と他者を同一視することの危うさを表している。
また、日本大学の井村恒郎教授らのグループによる、「統合失調者の家族個人個人の共感能力は非常に悪いが、当の患者自身は最も優れた共感能力をもっている」という結果の研究を例に挙げ、共感する度合いの高さと、家庭内での相互信頼の醸成の不足が、統合失調症の発症の要因になりうる、と指摘している。
共感の度合いの高さによって統合失調症が発症するとはにわかには信じがたいが、共感の度合いが高いとノイローゼなど何らかの精神疾患を患いやすくなることは想像できる。
そう言う意味で、共感度合いが高いことによる悪影響がこの著書でも指摘されている。
後でも触れるが、著者は「現実が現実性を帯びるためには、その時感じる感覚が明確に「掴み取られるように」知覚されなくてはならない。」と言う。
そのためには単なる受動的な感覚の知覚ではなく、「能動的な努力感を伴った行為の要素」が含まれる必要がある。
現実性を伴う体験には、一種の「手ごたえ」のような感覚があり、この抵抗感がなければ現実的という感じは現れない。
現実性を構成している抵抗感は、 知覚対象それ自体から発せられているわけではなく、現実性とは、私たちの知覚行為がされるごとに生み出される現実感という意識そのものである、と言うわけである。
ー現実性を感じる時の何か「抵抗感」のような感じー
この感覚は、芸術作品をはじめとするものを目の当たりした時に感じる「美的なもの」と同質のように感じられる。
「超相対性理論」と言う音声コンテンツがあるのだが、その「美とは何か」と言う回で、プラトンの『餐宴』を援用して「アートに触れた時何か”孕む”ような感覚を覚える」と言う表現があった。
この美的なものに触れた時に感じる「孕むような感覚」も、現実性の根拠になる「抵抗感」と言えるような気がする。
「孕む」とは自分ではない存在が自分の中に内包されていて自らと一体化している状態と言える。
何か自分とは違う異質なものが中にあるという抵抗感と、それを「善い」ものとして歓迎したいと思う受容感。
それを同時に感覚し、その狭間の中で感じる感覚こそが「現実性、つまりリアリティ」であり「生きる実感」ではないだろうか。
また、美的なものに触れた時に感じる「抵抗感」について、(何の著書か忘れたが、)岡本太郎が「美は異物でなければならない」というような主旨のことを言っていたことも思い出される。
話を元に戻すと、本書は、異常者を排除するのは傲慢で憚られるし、かと言って常識的日常性の世界にいるが故に自ら好んで異常者になりたいとも思えないし異常者の立場に立つこともできない。
ならば、せいぜい私たちにできることといえば、私たちが日常だと感じるこの世界は生への執着から生じる虚構であり、異常者を治療したり排除したりしようとする努力は、私たち「正常者」の自分勝手な論理に基づくものだと冷静に見極めることしかない、と締める。
これはつまり、「異常」に対して、排除するのでもなく自らのうちに組み込み同一化するのでもなく、ただそこに「ある」存在として認めることが、あるべき「異常」に対する態度なのだと思う。
そしてこの姿勢は「イリヤ=ある」と言うレヴィナスの他者観に共通するものだと思えて仕方ない。
本書の中で「合理性(常識は常識であると言う妥当性)は生の意思から生じる」と著者は主張するが、最後にその論理を整理してこの文章を終わりにしたい。
現実が現実性を帯びるためには、その時感じる感覚が明確に「掴み取られるように」知覚されなくてはならない。
そのためには単なる受動的な感覚の知覚ではなく、「能動的な努力感を伴った行為の要素」が含まれている。
私たちの現実性体験には、疑いもなく一種の「手ごたえ」の感覚があり、この抵抗感がなければ現実的という感じは現れない。
現実性を構成している抵抗感は、 知覚対象それ自体から発生られているわけではなく、現実性とは、私たちの知覚行為がなされるごとに生み出される現実感という意識そのものである。
私たちの日常的常識的な感じ方では、世界にある様々な物体や音、匂いなどについて、それらの知覚対象が間違いなく実在するという確実な信頼感があって、この知覚体験は、物体や音や匂いが実際に客観的に存在するから、つまりそれらが私自身の勝手な空想的産物ではないから生じると思っている。
しかし実際はそうではない。
現実性を感じるために必要な「能動性」とは、ショーペンハウアー的に言うなら、私たち自身の「存在への意志」、「生への意志」である。
非合理は合理の中では実在してはならない。
非合理は非現実な存在としてのみその存在を許される。
非合理(つまり非現実)の対極にある「合理」は、非合理の対極にあるために現実性によって支持される。
現実性は「生の意思」によって生じるので、現実性によって支持される「合理」もまた「生の意思」によって支えられたものだと言える。
以下、要約
人は異常なほど「異常」に興味を示す。
しかしそれは対岸から眺めているときに限っての興味であり、目の前に異常性が表出した時には、人はそれを忌避し排除しようとする。
なぜ異常を排除するのか。
それは「世界は合理性によって成り立っている」と信じているからである。
「常識」が通用しない異常者の存在によって、世界を構成する合理性を破壊されると考えるからである。
常識は英語で「コモン・センス」と言い、その語源はギリシャ語やラテン語でも「共通の感覚」を意味する。
「感覚」は人それぞれ持ったり感じたりするが、それが何なのかを説明することはできない。
「クオリア」という語で説明されるように、砂糖を舐めた時に感じる甘い「感じ」を言語化することはできない。
また、「甘い」という言葉で表現されるのは砂糖を舐めた時の味覚だけでなく、例えば仕事の未熟さ(詰めが甘い)とか、柔らかなヴァイオリンの音色も「甘い」で表現される。
それは砂糖の味覚と仕事の未熟さとヴァイオリンの音色に何か共通するものがあって、それを「甘い」と表現しているだが、共通するものが何であるのかは説明は難しい。
ところで、砂糖の味覚も仕事の未熟さもヴァイオリンも音色も「甘い」と表現することに違和感はないはずである。
「甘い感じ」(というクオリア)を「私が感覚する『甘い感じ』はこんな感じです」と誰かに説明したこともないし、誰かから「甘い感じとはこんな感覚です」と説明を受けたこともない。
にもかかわらず、同じ「甘い」という感覚を共有して、しかも味覚だけでなく聴覚や状況を説明する語として「甘い」という言葉を操ることができるのはなぜだろうか。
それは、共通感覚=常識は実践的な感覚であり、世界との関わりの中で形成されるからである。
同じものを食べた時に、私が「甘い」と言って他者も「甘い」と言ったなら、「甘い」という意味については相互理解を持つことができる。
そしてこの時感じた「甘い感じ」は、もはや私の内部だけで生じた出来事ではなく、世界においても同様に生じる感覚であると認知される。
このように形成された常識は、社会との共通感覚であるが故に規範性も内包する。
したがって、常識の通用しない異常者は、規範の違反者、合理性の破壊者として忌避されることになる。
私たちが「常識」であり「正常」であり「日常」だと感じている世界はどのようなものなのだろうか。
著者は「常識的日常世界」の原理として3つ挙げている。
1.個物の個別性
それぞれのものは世界に2つとして同じものはない、ということ。
砂浜には無数に砂の粒があるが、そのどれもそれぞれ別個のものであり、「この砂粒が同時にあの砂粒である。ということはありえない。」
そしてそれは「私」についても同様で、私以外に私ではなく、あの人が私になることも決してない。
2.個物の同一性
どんなものでも時間や場所によって変わることはない。
今私が手にしているスマホは、昨日も同じスマホだったし、明日も明後日もずっと同じスマホであり続ける。
また、今の私は昨日の私であるし、明日は私が別の人になるということもない。
ただし同一性は微妙な問題を含んでいて、世の中に変化したり流転しないものはない。
川の流れは絶えず流れて変わるし、人も細胞の新陳代謝によって一定の期間で全ての細胞は入れ替わる。
それでも昨日のアマゾン川と今日のアマゾン川は同じアマゾン川だと認識するし、学生時代の親友Aは、卒業して何年経っても白髪が増えていても親友Aのままである。
このことを説明した文章を本書から以下に引用したい。
「物質的なものにせよ非物質的なものにせよ、個物の同一性というのは、表面的な姿や形の同一性、周囲に対する作用の同一性、あるいは性質の同一性といった意味ではなく、そういう外面的性質的な現象の底にあってそれを担っているもの、つまりそのものの本質あるいは実体といえるようなものの同一性の意味である。(p110)」
3.世界の単一性
この世界以外の世界を考えることができず、私たちはすべて同じ一つの世界の中にいる。
天国や地獄、あの世といった死後の世界やSFやファンタジーなどのフィクションの世界など、この世界ではない世界を無限に私たちは想像できるが、私たちが生きている「この世界」は単一で、どんなに架空な世界を作り出そうとも、「この世界」で生まれたコンセプトや概念であることには変わりなく、「この世界」とは別の世界が存在することにはならない。
著者は、常識的日常世界の3つの原理を「1=1」という単一の公式で表す。
また、ドイツの哲学者フィヒテは『全知識学の基礎』で「AはAである」ということについて「『AはAである』という判断を下しているのは『私』であるので、Aも私の内部で私によって措定されている。したがって、『AはAである』とは、『AがAであるのは、私がAをAであると認めている』ということを意味する」と主張した。
このフィヒテの「第一命題」も「1=1」の公式を援用していると言える。
「1=1」という公式は単純なようだが、「私たちはこの公式の証明をできない」という大きな問題を含んでいる。
つまり、私たちが「常識」としていることは、何の正しさの証明もできない、ということを意味している。
そしてこの公式は絶対的な普遍性を持っているわけではない。
むしろ常識的日常性の世界というきわめて限定された領域内でのみ適用される。
「この領域を一歩でも出たところでは、この基本公式はもはやなんの意味をももちえない。そして、私たちの住んでいるこの世界は、この限られた常識的日常性の世界よりもはるかに広く、はるかに深い。(p119)」
ところで、統合失調症患者の言動で共通しているものとして、「自己同一性についての自明性の喪失」が挙げられる。
統合失調症患者は、その言動において「個別性の原理」と「同一性の原理」が崩壊している世界にいて、この二つの原理の不成立を、第三の原理である「世界の単一性」を否定することによって、いわば「合理化」しようとしている。
そのため常識に則していうと、患者は私たちの世界観を全く理解しておらず、辻褄の合わない見当外れな返答を行う。
つまり「1=1」が成り立たない世界にいると言える。
しかしこの「異常」は決して「劣等」を意味するものではない。
少なくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言い表わしているので、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。
むしろ、私たちこそが彼ら患者の論理や世界観を理解する能力を持ちえず、患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。
「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇型的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない。(p136)」
精神病患者は、西洋中世では悪魔の所業とされ、近世でも浮浪者や生活不能者と同様に保護収容されたり、あるいは凶暴な犯罪予備者として拘束監禁の対象となった。
つまり忌避すべき対象として排除されていた歴史を持つ。
しかし近現代になって彼らに医学の観点での光が当てられ、人道主義でもって精神病患者の居場所は陰湿な牢獄から近代的な設備を備えた精神病院へと移され医学的治療の対象となった。
そして今や彼ら精神病患者は、献身的な看護と、加速度的に進歩する治療技術の恩恵を受けられるようになった。
しかし、この精神病者の医学への移管は彼らにとって幸福だと言えるだろうか。
かつて隔離や排除や差別の対象だった精神異常者を、精神病患者という名のもとに医学的施設に収容することによって、隔離や排除の対象から解放されたと言えるだろうか。
近代的な法律では、精神病者は責任能力が病のために欠落しているという理由から、彼らの行為の責任を問われることがない。
しかしこの免責は、彼らから人間としての資格を剥奪することを意味するのではないのだろうか。
「異常」から「病」の読み替えが行われた結果、彼らは中世の魔女裁判でも近世の牢獄の中でもかろうじて保持し続けていた、社会構成員としての権利という最後の体面すらも失うことになった。
責任能力の免除こそ、実はもっとも徹底した排除と差別ではないだろうか。
そして、 医学への救済は、この残酷な極刑を見るに忍びない社会の側からの自分自身の心を安らげるための偽善的な奉仕を意味してはいないだろうか。
「「異常者」は 危険な存在だからひとり残らず病院に収容すべきである、そして病院内では彼らに最大限の「人権」が与えられるべきである―この二つの主張の奇妙な対位法こそ、現代の合理化社会の体質をみごとに象徴してはいないだろうか。 (p141)」
異常者の排除は、日常的な常識を構成する「合理性」から逸脱しているという理由に基づいて行われていると言える。
ならば、「合理性」はどのような理由で「非合理」を排除する権力を持つのか、ということを問わなければならない。
この問いに取り組む前に、「合理性」の本質を考える必要がある。
「合理↔︎非合理」の関係は、単なる反意語の関係ではない。
通常反意語は「AはBでないもの」、「BはAでないもの」という具合に倒置しても成り立つ。
「美↔︎醜」を例に挙げると、「美は醜でないもの」という命題が成り立つし、「醜は美でないもの」という命題も成り立つ。
しかし同じく反対語とみなされているが「A =非B」、「B =非A」の相互的交換が成り立たない概念もあり、例えば「有↔︎無」、「一↔︎多」、「自↔︎他」などが挙げられる。
「有↔︎無」についてみると、無を非有と規定することはできても、有を非無と規定することは不可能である。
同様に「一↔︎多」でも、多を一でないものと規定できても一を多でないものとは規定しにくいし、「自↔︎他」において他を自でないものと規定はできるが、自を他でないものと規定するのは不自然である。
つまり、これらは厳密な意味での「反対語」ではなく、いずれも一方の語(有、一、自)は絶対的にそれ自身で完結した概念であって、もう一方の語からの規定を要しないのに反して、もう一方の語(無、多、 他) はそれ自体においては成立せず、常に絶対者としての前者からの規定を通じてのみ意味を与えられる。
つまりこれらは通常の「反対語」における相対的な相互交換性ではなく、絶対的な一方的従属性関係にある。
そして「合理↔︎非合理」の関係も、非合理が合理に従属する関係にある。
非合理が非合理として成立し得るためには、非合理は決してそれ自体独立の存在であってはならず、非合理は合理の否定としてのみ、つまり合理の成立に完全に従属した存在としてのみ、その成立を許される。
非合理は、それが「誤っている」「異常」と理解される限りにおいて合理の中に存在でき、非合理は、合理が「正しい」ということを証明するための道具に成り下がる。
もし非合理が合理と対等に合理とともに存在するなら、合理は非合理を内包することになり合理として存在し得ないことになる。
「合理性は真にみずからと対等の力をもち、対等の世界を占有しているような 非合理を徹底的にみずからの世界から排除する。 そしてそれにかわって、みずからの世界の中には「誤り」ないしは「狂い」としての、みかけ上の「非合理」 の存在を許す。しかもそ れは、みずからが「正しい」ことを明確に浮びあがらせるための「対照」としてであるにすぎない。 「誤った」ことがありうるからこそ「正しい」ことがありうる、「異常な事態が時 として生じうるからこそ、それ以外のたいていの場合は「正常」 でありうるのである。このような「非合理」は、もはや合理と真に対決する力を有しない。(p146)」
現実が現実性を帯びるためには、その時感じる感覚が明確に「掴み取られるように」知覚されなくてはならない。
そのためには単なる受動的な感覚の知覚ではなく、「能動的な努力感を伴った行為の要素」が含まれている。
私たちの現実性体験には、疑いもなく一種の「手ごたえ」の感覚があり、この抵抗感がなければ現実的という感じは現れない。
現実性を構成している抵抗感は、 知覚対象それ自体から発生られているわけではなく、現実性とは、私たちの知覚行為がなされるごとに生み出される現実感という意識そのものである。
私たちの日常的常識的な感じ方では、世界にある様々な物体や音、匂いなどについて、それらの知覚対象が間違いなく実在するという確実な信頼感があって、この知覚体験は、物体や音や匂いが実際に客観的に存在するから、つまりそれらが私自身の勝手な空想的産物ではないから生じると思っている。
しかし実際はそうではない。
現実性を感じるために必要な「能動性」とは、ショーペンハウアー的に言うなら、私たち自身の「存在への意志」、「生への意志」である。
非合理は合理の中では実在してはならない。
非合理は非現実な存在としてのみその存在を許される。
非合理(つまり非現実)の対極にある「合理」は、非合理の対極にあるために現実性によって支持される。
現実性は「生の意思」によって生じるので、現実性によって支持される「合理」もまた「生の意思」によって支えられたものだと言える。
異常者は、常識的日常性の世界においては、通常の常識が通用しない存在、つまり非合理な存在として存在する。
非合理な存在は合理によって排除されなければならない。
このことこそ、「正常者」の社会が常に「異常者」を排除し続け、精神病者との共存を拒み続けた根源である。
「この排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない。(p152)」
異常者の排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提としている生への意志に他ならない。
常識は、社会全体の中で人々がより合目的的に生命を維持しうるための、いわば「生活の智恵」として発生した。
つまり常識とは、生存への意志それ自体によって生み出されてきた概念である。
生存の意思によって生み出された常識は、生存のために異常者を排除する「規定」としての機能も持つ。
「異常」を排除する機能を発揮する際に、「常識」はその「異常さ」の判別を行い、それが修正可能な単なるイレギュラーであればエラーを修正することで「常識的合理性に復帰」させる努力をし、それが常識を揺るがす根本的な異常であったときには徹底的に排除されることになる。
現代は精神異常者に対する差別をなくし、彼らを社会の共同生活の中へ迎え入れようとする動きが起きている。
しかし、この運動が単なる感傷的ヒューマニズムの立場からなされるものであるなら、それは事態の真相を全く理解していないばかりか、偽善的自己満足という無意味な運動に終わらざるを得ない。
「異常者」を真の意味で私たちの仲間として受け入れようとするためには、私たちは自らがなんの疑問もなく自明のこととして受け入れている自己の生存という現実を、あるいはそもそも「生きている」ということの意味を、あらためて問い直す勇気を持たなくてはならない。
合理性や常識の根拠となる「生存への欲求」は、個体としての生存の欲求を意味する。
あらゆる生物と同様に、人も「個体」としての生命保持を求める傾向が見られ、その傾向は、自分以外の他人を大なり小な自己の生存権を制約する敵とみなさせる。
しかし他者を全て敵視して自らの生存だけを追求して生きていくことはできず、複数の人間が集団を形成している場合、利己的な自己の生存の欲求を制約し、他人による自己の生存欲求への制約を容認することこそが、自己の生存を保持するための必要条件となる。
したがって人が共同生活を営む中で成立する共通の規範、つまり常識は、一段階高次の意味での生命への意志によって形成されたものと考えられる。
共同体の中で自己の生存欲求を制約し、 他人の持つ生存欲求を認めるという態度は、他者も自己と同じ「一」という存在なんだと認めることによってのみ可能になる。
「一」が他人の共同存在を認めた自己の存在概念であるとするならば、元来の無制約的な生存への欲求を具現した自己の存在概念は「全」である。
「全」は一切の他を認めず、他との区別における自己も存在しない。
ただし、「一」という存在そのものは「全」と変わりない。
「一」としての自己の他に「一」という存在があることの認識、つまり「1=1」へ展開が生じて初めて「一」は「全」と区別される。
個として生存するため、そして個としての生存のために必要な社会の形成のために、通常人は「一」と「全」が区別されなかった幼少期を経て、徐々に「1=1」へ展開していく。
しかし精神異常者は自己と他者との区別がつかず、「1=1」へ発展しない。
その背景として、育った家庭環境において相互理解や相互信頼という情操が育まれなかったことが考えられる。
情操が育つには特に父親の役割が重要になるが、父親の影が薄く母親が絶対的な支配権を持つ家庭は、特に男の子に対しては非常に危険な悪影響を及ぼす。
「男の子は父親から男性としての力強さと能動性とを学びとり、母親からは自分を受け入れてくれる女性のやさしさと受動性を感じとりながら男性として成長するものである。ところがこの症例(統合失調症)に代表されるような逆転した夫妻のパターンから生まれた男の子は、いわば男性としての自己像を確立することができないままに思春期を迎えなくてはならないことになる。この男性としてのアイデンティティーの危機に加えて、この症例においてもまた、致命的ともいえるような相互無理解と感情の冷たさとが、あまりにも明白にみとめられる。(p165)」
しかし他者を一人の「個」として認める認知機能は、相互信頼の醸成が不十分でも経験による知的操作によって、ときには完璧に偽装されうる。
分裂病者と同じ家族内にあって分裂病の発症を免れている人たちは、多少なりとも容易に壊れない偽自己の体系を作りあげていると考えられる。
日本大学の井村恒郎教授らのグループによる分裂病家族の研究で、分裂病者の家族成員個人個人の共感能力は非常に悪いのに、当の分裂病者自身は最も優れた共感能力をもっているという結果が出ている。
分裂病者は、家族の中で唯一人間的な共感能力を持ちあわせていたことにより偽りの自己の仮面を作ることができなかったからこそ、分裂病に陥ることになったのではないだろうか。
統合失調者を「病気」 とみなす見方の裏には、彼らに対する常識的日常性の側からの排除的意識が潜んでいる。
しかしそうは言っても、自ら好んで統合失調症を患いたいと思う人はいないだろうから、治療により回復するのであればそれはいいことのようにも思える。
このように、私たちは異常者の立場に立つこともできないし異常者になりたいとも思わない。
かといって異常者を排除することも憚られる。
私たちは、異常に対して自らの立ち位置を把握することくらいしかできない。
「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」 しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう(p175)」