小規模で毎月定期的に行われている映画会に初めて参加してみた。
参加した動機は、上映される作品に興味をそそられたから。
その作品が『ザ・トゥルー・コスト』(2015年製作)
<作品の紹介>
これは衣服に関する物語で、私たちが着る服や衣服をつくる人々、そしてアパレル産業が世界に与える影響の物語だ。これは貪欲さと恐怖、そして権力と貧困の物語でもある。全世界へと広がっている複雑な問題だが、私たちが普段身に着けている服についてのシンプルな物語でもある。
この数十年、服の価格が低下する一方で、人や環境が支払う代償は劇的に上昇してきた。本作は、服を巡る知られざるストーリーに光を当て、「服に対して本当のコストを支払っているのは誰か?」という問題を提起する、ファッション業界の闇に焦点を当てたこれまでになかったドキュメンタリー映画だ。
この映画は、きらびやかなランウェイから鬱々としたスラムまで、世界中で撮影されたもので、ステラ・マッカートニー、リヴィア・ファースなどファッション界でもっとも影響のある人々や、環境活動家として世界的に著名なヴァンダナ・シヴァへのインタビューが含まれている。またフェアトレードブランド「ピープルツリー」代表サフィア・ミニーの活動にも光を当てている。私たちは行き過ぎた物質主義の引き起こした問題に対して、まず身近な衣服から変革を起こせるのかもしれない。
洋服が好きだ(った)し、かつて短期間だけど洋服屋の店員として働いていた事もあった。
洋服屋の店員として働いて辞めるまでの期間にあった洋服に対する情熱は、今はどこかへ行ってしまったけれども、今でも<ファッション通信>というファッションシーンやモードシーン専門のBSのテレビ番組は毎週録画して見ている。
なので、現在のアパレル業界の”闇”と言われる部分も見聞きしていた。
その上で、アパレル業界の負の部分についての情報や知見を深めたかったのと同時に、90分間の”映画”というフォーマットにおいて、どのような形でそれが表現されるのか興味があった。
<鑑賞する前に思ったこと>
”サステナブル”と謳いながら、その実は”セレブ”や”インフルエンサー”と称される人たちを招き、人目を惹く派手なショーを行い、それらに使用した資材は消費され再生されることはない。
いくら綺麗なお題目を並べても、”人より良く見られたい、優位に立ちたい”という虚栄心によって支えられているのがモードシーン。
ブランドイメージや価格の維持のためには、売れ残った商品はゴミとして廃棄される。
ファストファッションも、大量生産大量消費の文脈の中でゴミを作りゴミを売っている。
そんなアパレル業界に対して、どのような眼差しを向ければいいのだろうか。
<鑑賞した後に思ったこと>
出てくるファッションモデルの女性が白人の痩身な人ばかりで、今の「多様性」の論調が台頭する前のモデル像で、もはや懐かしい。
痩せすぎたモデルを規制する動きが出てきたのが2006年くらいで、そこからモデルの身体的特徴に関するプロトコルが更新される動きが加速していったような印象がある。
ただし、痩せすぎたモデルを規制する動きは、過酷なダイエットの結果不健康になったり命を落とすモデルが多く生まれたことによる対抗作で、今のような”多様性”の文脈ではない。
アメリカのニュースキャスターが、”消費こそがアメリカの象徴であり、豊かさの表れであり、偉大なるアメリカの復権のシンボルだ”と声高らかに主張するシーンがあるのだが、その煽りは”MAGA(Make America Great Again:アメリカを再び偉大な国にしよう)”というスローガンを想起させ、その後のトランプ政権誕生を予言している。
縫製工場の社長(どこの国かは忘れたが、南アジアの人のような見た目)が「従業員は経営者を尊敬するのが当たり前だ」という発言や、 縫製工場で働く工員が労働組合を組織して経営層に交渉を提案すると、部屋に鍵をかけられ、経営者層に椅子や道具で叩かれたり殴られたり蹴られたりして暴行を受けた、という証言から、アジアの工場の経営者の思想は、まんまヨーロッパの産業革命の時代の資本家の思想そのものなんだなと思った。
イギリスで産業革命が起きることで資本家と労働者の間に大きなパワーバランスの乖離があって、その乖離を埋めるための試行錯誤を200年以上続けてきて、今の労使関係が法によって規定されている。
ということは、18世紀半ばのヨーロッパにおける資本家の思想と同じ思想を持つ経営者とその労働者の間に今の労使関係観がインストールされるには200年以上かかるということか。
”フェアトレード”をコンセプトにするアパレルブランドの代表が、縫製工場の労働者の前で「あなたたちの投票で、あなたたちの代表にふさわしい人を選んでください。私たちはあなたたちの選んだ代表をイギリスに招待します」と言ったとき、それを聞いた労働者の表情が明るく、誇らしいものに変わったのが印象深い。
それだけ自分や自分の仕事、自分だけでなく仲間や彼らの仕事に誇りと自信を持っているのだと思った。
日本の職場環境だと、なるべく目立たないように遠慮してスポットライトを浴びないような振る舞いをするか、それかメガベンチャーやIT企業みたいに無理矢理従業員の高揚感をブーストさせて、労働環境に対する違和感を麻痺させてるための材料として利用されるかのどっちかのように思えるが、彼らの場合はそのどちらでもなく、ナチュラルに「これまでやってきたことが報われるチャンスがきた」という期待感を感じられる。
バングラデシュの縫製工場で働く女性が、娘と離れて働くことについて「離れて暮らすのは辛いが、自分のような人生を送って欲しいとは思わない。勉強して政府の高官になるか、いい人と結婚して不自由な生活を送って欲しい」と語っている場面がなんだか引っかかる。
彼女の本心なんだろうけど、政府の高官になるか金持ちと結婚するということは、搾取する側に回るということで、搾取する側とされる側という関係の構造の中からは解放されていない。
例え彼女の娘が成功して搾取する側に回ることができたとしても、その対極には彼女の娘以外の人が搾取されているということになる。
搾取する側、される側という構造からの”解脱”が行われるには、バングラデシュで暮らす彼女たちの世界の外側からの作用が必要なんだろうと思う。
それがなければ、いくら”輪廻転生”(本当に死んで生まれ変わりに期待するという意味ではなく、ジョブチェンジ、クラスチェンジを経て生活様式が変わることの比喩)のチャンスがあってそれを繰り返しても根本的な解決にはならない。
この作品では”服飾”をテーマに、搾取される実態を表現しているが、服飾とは反対に、”消費することが罪だとされない”、”搾取されていても、それは必要な犠牲である”とされているものは何かあるだろうか。
例えば社会を善くするような概念があったときに、それを広く知らしめ社会に実装するために特定の人の犠牲が必要となった場合、それは搾取と言えるだろうか。
作品の中で外国のファッション系YouTuberが描かれていたが、日本にもファッション系YouTuberがいる。
彼らが商品紹介をするときにコスパの話をすることもあるが、ほとんどが「メーカーやバイヤーの企業努力によってこの品質のものがこれだけの低価格で販売できている」という語り口調。
当然メーカーやバイヤーの努力によるものもあると思うが、さらにその奥にある、高品質のものを低価格で生産することを強いられている縫製工場で働く人の辛苦があることが抜けていることに気がついた。
今の消費のシステムに問題があるから、ファストファッションや高級メゾンブランドは消え去るべきだ、とか、資本家の特権を打破するために血を流してでも共産主義革命を起こさなければならない、といった極端で過激な思想に傾倒するのは違うと思う。
過酷な環境下にありながら、アパレルの業界の中で収入を得て生活している人がいるというのは純然たる事実だし、何よりも作品の冒頭の部分でも言及されていたが、「服飾とは歴史であり、文化であり、表現である」と思う。
歴史や文化や表現を妨げることは、人の叡智そのものを否定することだと考えている。
問題なのは、ほとんどの人が売られている物の背景に興味ないことなんじゃないだろうか。
安いのはいいんだけど、なぜそれが安いのか。
逆に値段が高いのはなぜ高いのか、ということを考えることが必要だと思う。
値段が高ければ善いというわけでもなく、値段が高くてもブランドイメージ維持のために莫大な広告費などのコストが必要で、それを維持するために高価だったりもする。
物事の選択の理由として「なんとなく」選ぶことが厳しい時代になっているのかもしれない。
なるべくモノを買わないようにするのではなく、彼ら生産者へのリスペクトを表明できる方法でモノを買いたい、と改めて思った。
20世紀のフランスの思想家で、ポストモダンの代表的な人物とされるジャン・ボードリヤールは著書『消費社会の神話と構造』で、大量消費社会時代におけるモノの価値は、モノそのものの使用価値にあるのではなく、その商品に付与された”記号”にある、と指摘した。
商品に付与された記号、つまりイメージを自身に身につけ纏うことで、その人自身のステータスが上がることを期待してモノが消費されていく。
これまでは”何を”(what)買うかがその人のパーソナリティを表す記号として機能していたが、これからは”何を”と同時に”どう”(how)買うかも自身の生き方や意思を表明する記号として機能するんじゃないかと思った。