【書】テーマ:利他

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公開:2024/8/13

近所のブックバーで毎月1回行われる読書会に参加している。

今回は課題図書は設定せずに、「利他」をテーマに各々が思い思いの本を事前に読み、それから考えを出し合いながら利他とは何かを考えることをやった。

この投稿では、今回の読書会のために読んだ本とその内容の簡単な紹介と、私なりの利他についての思考を残したい。


『はじめての利他学』若松 英輔

最澄と空海のそれぞれの利他

利他はそもそも仏教用語だという。

そして平安仏教を開いた2人の僧侶、最澄と空海はそれぞれ異なる利他観を持っていた。

最澄

・忘己利他

・己を忘れて他者を利することが慈悲の極みである

・自らを滅してでも人を助けよ

空海

・自利利他

・自利と利他は不可分で同一のもの

・自らの利益もないと他者を助けることはできない

「虚」の哲学

「虚」とは、私たちの心の奥に生まれる余白であり、心の深奥に「虚」が生まれたとき、そこを「仁」などの徳が充たす。

心は通常自意識によって埋め尽くされていて、不安や不平や不満で満たされている。

このようなネガティブな思いで心を占領するのではなく、自分の思いを鎮め、 「虚」=余白を生み出さねばならない。

満足することを知らず、つねに「もっと、もっと」 という心持ちが湧くと、「虚」はなくなってしまう。

自己愛と利己

真実の愛は特定の一人だけに向けられるものではなく、相互依存的な執着やエゴイズムを超え、その人を通じて未知の人々へと広がるものである。

それは他者だけでなく自己への愛も含む。

自己愛は決して利己的な行為ではなく、真の利他愛につながる重要な要素である。

自己愛を忘れると、他者への愛が十分に発揮されない。

自己を受け入れた後に初めて、他者と人間性を受け入れる道が開かれる。

しかし自己を許す事はそう簡単なことではない。

そのため例えばE・フロムは、人を愛するには鍛錬や技術が伴うと説く。

自分を愛するためには、自分のネガティブな部分も受け入れることが重要であり、それが自信となり、他者を等しく愛する基盤となる。


『「利他」とは何か』 伊藤 亜紗、中島 岳志、若松 英輔、國分 功一郎、磯崎 憲一郎

伊藤 亜紗

功利的利他

功利的利他の考え方として2つの利他主義を取り上げる。

  • 合理的利他主義

    ジャック・アタリ(フランスの経済学者):「自分にとっての利益」を利他的行為の動機にすることで利他を駆動させる。

  • 効果的利他主義

    ピーター・シンガー(オーストラリアの哲学者):最大の効果を得るために幸福を徹底的に数値化することを提唱。

    利他的な行動が共感に支配されないようにすること、共感よりも理性にもとづいて利他を行うことが重要であると考える。

数値化すること

  • 数字にこだわる限り、金銭や物資の寄付という数値化しやすいものがもっとも効果的になってしまう。

  • 私たちはあらゆる労働が数値によって評価される時代を生きているが、その指標が本当にその労働を正しく評価しているのかどうかは、分からない。

  • 生産性を判断し管理を容易にするために、ひとまず数値化しやすいものが数値化され、それを最大化するために働く、という逆転現象が起きている。

信頼

特定の目的に向けて他者をコントロールすることが利他を最大に阻害する。

そこには他者に対する信頼が圧倒的に欠けている。

目が見えなかったり、認知症があったり、自分と違う世界を生きている人に対して、 その力を信じ、任せることが必要。

やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだとも言える。

信頼するときに人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなく委ねている。

信頼がないと自分の価値観を押しつけてしまい、結果的に相手のためにならないというすれ違いが起こる。

不確実性

利他的な行動には、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という思いが含まれていて、それは私見であり思い込みでしかない。

思い込みによる利他は相手を支配することにつながる。

利他は不確実性が前提になければならない。

不確実性を意識していない利他は押しつけであり、暴力になる。

合理的利他主義は、他人に利することが自分に還元されると考える点で、他者の支配に繋がる危険をはらんでいる。

不確実性を意識するには、相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にない。

ケアが他者への気づかいであるかぎり、そこは必ず、意外性がある。

意外性は「他者の発見」を生じさせる。

そして「他者の発見」は「自分の変化」を生む。

不確実性を受容するうつわ、余白

相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていることが必要。

それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもある。

中島岳志

見返りを求めない

与えたことがどこかで自分にかえってくるという期待を持って行為をすることは利己的な利他に当たる

親鸞がいうには、慈悲には2種類ある

  • 「聖道の慈悲」

    善いことをしようと思ってする聖者の行い

    自力

    善いことをしよう、 誰かを助けたいという意思を持って行うことは、尊いが不完全な慈悲である

  • 「浄土の慈悲」

    浄土からおのずとやってくる

    他力

    阿弥陀仏の慈悲であり、見返りを求めない一方的な慈悲の心

「浄土の慈悲」のような行為が真の利他的行為と言える。

若松英輔

柳宗悦の民藝

柳は工藝の美は奉仕の心から生まれるとし、器が超越的存在に仕えることを強調する。

器は「いのち」を持ち、奉仕の心を宿し、用いられることで「民藝」となる。

柳は「工藝」の優位を説き、飾られるだけの「美藝」と区別した。

作られた傷は単なる破壊だが、 人々が用いることで付いた傷からは、新しい美が生まれる。

柳宗悦の「不二」

利他は「他」と「自」が一体となることで初めて生じる。

人間の主体性の産物ではなく、非人間的実在との呼応によって現象する。

利他は個人の意図ではなく、他者によって用いられることで現れる「出来事」であり、人為とは別の働きが必要である。

利他は行うのでなく、 生まれる

利他のさまたげになっているのは作意である。

利他は手仕事のようなもので一度きりの出来事であり、科学的な真理とは異なり、反復や証明を必要としない。

利他は個々人の生の経験として感じられ、同じ行為でも人によって喜びや憤りなど異なる反応を引き起こす。

真実は必ずしも一様ではない。

沈黙

利他は行為によって顕現し、言葉で説明すると本質が見えにくくなる。

陰徳を積むことが重要で、沈黙の力を説く言葉として読むことができる。

善行も重要だが、無為の状態でこそ真の利他が成就する。

書は文字と余白の両方を生み出し、余白を認識しなければ文字も理解できない。

同様に、人は言葉と沈黙の両方を用いて話し、聞き手の沈黙があるからこそ話ができる。

論理の道の先に真理はない

利他を概念化すると、その本質を失い、記号化された「死物」となってしまう。

現代では論理の矛盾がないことが正しさとされるが、現実は矛盾に満ちており、論理を超えることが多い。

計算された利他は本質的に利他ではなく、論理とは異なる「理」が必要である。

國分功一郎

利他は意思にもよらない

中動態:能動でも受動でもない状態を表す言語表現。

自身の行為は自らの意思によるものでもなく恣意的ではないが、それを行った責任は生じる。

義務とか責任とかという概念の及ばないところに利他はある。


『思いがけず利他』 中島 岳志

利他とは、「無為性」、「偶然性」、「止まらないもの」、「仕方がないもの」、「どうしようもないもの」、「不可抗力」、「やってくるもの」

  • 業(カルマ)

    私の力ではどうにもならないもの、縁という力に支配されている。

  • 親鸞「悪人正機」

    私たちは毎日、何かを食べて生きていて、常に動植物の命を奪って生きている。

    私たちが自然に持つ「罪悪性」を自覚し反省的契機を掴むことで阿弥陀仏の光に照らされる。

  • 主格性の排除

    • 与格構文(ヒンディー語)

    「私はうれしい」と言う場合、ヒンディー語では「与格構文」を使って「私にうれしさが留まっている」という言い方をする。

    自分の意思や力が及ばない現象については、「与格」を使って表現する。

    言葉は「やってくる」という世界観。

    • 料理家の土井善晴

      「おいしいもの」を作ることを否定し、料理人は素材と料理の媒介に過ぎず、自然に沿って整えることしかできないと述べる。

    • 民藝

      多くの芸術家は美しい作品を作ろうとするが、日用品を作り続ける人は毎日の仕事に没頭し、意思を超えた美を追求する。

      柳はここに計らいを超えた「用の美」が現れると言う。

      美しいものを作ろうとすると、作品は人間の作為にまみれ、美が逃げていく。

      重要なのは、意思を超えたものが宿ること。

      美は作るのではなく、やって来る。

    • 意図、作為の排除

      「利他」行為には相手をコントロールしたい欲望が含まれることがあり、共感を求める行為は思ったような反応が得られない場合に自己の思いに服従させたい欲望に変わることがある。

      『贈与論』を著したマルセル・モースは贈り物の中には毒があると表現し、「贈与」によってお返しをしなければならないというプレッシャーや負い目が生じ、与えた側が優位に立つ現象が起きる。

    • 偶然性

      私たちは、自分の生まれを自分の力で選択することはできない。

      それは私にたまたま与えられたものであり、決して、自分の努力の賜物ではない。

      自己責任論は必然性、因果性を前提とするがその点で利他とは相容れない。

      私の存在にかかわる「偶然」「運」に目を向けることで、私たちは他者へと開かれ、共に支えあうという連帯意識を醸成する。

      私という存在は、突然、根拠なく与えられたものであり、あらゆる存在は、自己の意志によって誕生したのではなく、意志の外部の力によってもたらされたものである。

      この偶然が持つ否定性と奇跡の感覚は、超越的存在の認識へと至る。

      偶然性は、奇跡的な出会いの連鎖を生み出し、思いがけない出会い、驚きを伴う「邂逅」をもたらす。

      利他は未来への投資ではない。

利他は遅れてやってくる

特定の行為が利他的かどうかは、事後的にしかわからない。

与え手が思った行為が受け手にとってネガティブな行為であれば、それは利他とは言えず、むしろ暴力的なことになる可能性もある。

利他は与えたときではなく、受け取られたときに生まれる。

受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、ふとした瞬間に言葉の重要性に気づいた時であり、受信と発信の間には時間的な隔たりが存在する。

利他の構造においては、「発すること」よりも「受け取ること」のほうが、積極的な意味を持つ。

これは「与格」の構造と通じていて、受け手にとって大切なのは、「気づく」ことである。

偶然の出来事に直面したとき、つまり「現在」は驚きが生じるが、やがて偶然の驚異を飼いならし「あれは運命なのだ」と感じるようになり、偶然を必然に読み替えていく。

利他とは「思いがけず」行ったことが他者に受け取られ、それが受信者の側で利他と認識されたときに起動する。

その行為が利他的であるか否かは、行為者本人の決めるところではなく、事後的なものである。


『利他・ケア・傷の倫理学』 近内 悠太

ケア

他者に導かれて、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと。

他者の悲嘆だけをケアするのではなく、その人そのものをケアすることも指す。

存在の肯定、「あなたは何も間違っていない」ことを示すことがケアの本質

物語の語り直しによる、過去の出来事の改編それ自体をケアと呼ぶ

言語ゲームを続けることそれ自体。

利他

他者に導かれて、自分の大切にしているものよりも、他者の大切にしているものを優先すること。

他者の傷に導かれて、ケアを為そうとするとき、自分が変わってしまうこと。

偽善

私が大切にしているもののために、相手の大切にしているものを利用すること。

信頼

相手が自分を騙そうと思っているのではないか、あるいは相手に身を委ねた場合に利用されてひどい目にあわされてしまうのではないかという、相手が自己利益のために搾取的な行動をとる意図をもっていないという信念ないし期待。

大切なものが誰かによって大切にされなかったり、自分自身がそれを大切にできなかったときに生じるもの。

総論

私たちは日々傷ついている。

それは、精神がテクノロジーや社会制度に適応していないから。

そして傷つきやすいサピエンスが絶滅せずに今も生き延びているのは、互いに助け合い、ケアしているから。

ケアと利他の存在によって、生存し、生きている実感を得ることができる。

なぜ自己の生存確率を下げる利他的個体が自然淘汰されずに今も利他的行為がなされているのか。

それはルールの逸脱による罪悪感や恥の感情に起因する。

罪悪感や恥の感情は、フロイトによるところの私の中にいて自我を監視し、「~すべきである」という規範性を担当する高次の私である「超自我」に起因する。

罪悪感や恥を発生させる超自我によって利他が発動する。

後悔や恥という機能が、環境に縛り付けられた不自由な動物から、環境を自らの手で変化させることのできる自由な動物へと人を跳躍させる。

利他には葛藤が伴う。

明らかな葛藤がなく、真っ直ぐ相手へ向けられた善き行いは、ケアに当たる。

システム、規範との葛藤の果てに利他が生まれる。

  • 言語ゲーム

    人の気持ちは隠されているのではなく、最初から読めない。

    私たちのコミュニケーションには、言語ゲームの内部ではなく、ゲームの「間」に見通せなさという不確実性がある。

    言語ゲームはいかなる瞬間においても、「誤解」「勘違い」の可能性に開かれている。

    硬化したケアはたしかにマニュアル化できる。

    しかし、それは踏み固められた、公共的なものであり、目の前のたった一人の他者を迎え入れるものとしては不十分であり、ときに暴力的ですらある。

    だからこそ、生の過程で、「やさしさ」を巡る未知の言語ゲームをやり直さなければならない。

    言語ゲームにおける最大のペナルティは「ゲームの停止」あるいは「ゲームからの退場」である。

    ケアとは、言語ゲームを続けることそれ自体とも言える。

    言語ゲームに招き入れること自体が包摂(インクルージョン)である。

  • 物語

    私たちの悲哀と傷は、ただ物語によって慰められる。

    存在の肯定、「あなたは何も間違っていない」ことを示すことがケアの本質である。

    言語ゲームからこぼれ落ちた者、こぼれ落ちそうになっている者がいて、彼らにはこのままでは傷が到来する。

    ケアは他者の傷もしくはその予感に導かれて起こる。

    だからケアする人は、目の前の他者がちゃんとゲームを続けられるように言語ゲームを編み直す。

    物語の改変によるケアは自己変容ももたらす。

    自己変容とは、自らが従っているマニュアル、規範、言語ゲームを移動する現象を指す。

    誰かのために大切な何かを手放すことで私が変わる

普段、私たちは自分の傷を見ないようにする。

それは消え去ったわけではなく、抑圧したものは、あるタイミングを待って回帰する。

他者の傷に触れることは、その回帰のきっかけとなりうる。

他者の傷は、私の傷を開く扉となり、そしてそのとき、利他が起こる。

セレンディピティは意図的、計画的に起こすことはできない。

「満ち足りた私、かわいそうなあなた」という構図ではケアは起こらず、 それゆえ利他も起こらない。

他者をケアしようとする中で、思いかげず自己変容が起こる。

あなたの言語ゲームと私の言語ゲームが出会い、そこでケアが促され、利他が起こり、自己変容が起こり、そして傷からの回復が起こる。


ここから私見。

利他についての本を読む前に、利他についての疑問を書き出していたので、その内容と応答について整理したい。

利他の対象となるものは何か。

利他的行動の対象となる他者は誰でもいいわけではない。

利他的行動の対象となる他者とはどういう存在か。

→人に限らず、動物や自然、物も利他の対象となる。

相手がどのような存在であっても、自身の行為が対象に影響を与えうる(または与えた)ということがわかる相手でないと、利他は成立しない。

利他でありたいという動機の基づく行為は利他的か利己的か

→自身の行為が利他的であると確信している時の行為は利己的である。

生け贄として自身の身を捧ぐ行為は利他と言えるだろうか

→古代文化のように、生け贄の効果が期待されていた時代はそれは利他的行動だと言えた。

昔の時代でも、生贄を捧げる儀式によって事態が好転することは確実視されていないはず。

でなければ祈りは捧げられない。

祈りには確実性は伴わない。

自己犠牲性は利他性を否定する要素とはならない。

 

 

 

いくつか利他についての本を読んで、そこには共通するキーワードがあると思う。

それは「余白」と「非随意性」で、それらが利他についての思考の際に共通している。

 

 

 

東洋の考える「利他」と西洋の考える「利他」は、その性格に差違があるように思える。

「ノブレス・オブリージュ」という言葉のように、西洋にはどこか義務性、規範性を利他に内包しているように思える。

 

 

 

救急車が通る時、自動車がみんな避ける。

自分も避けるのだが、その時に何か泣きたくなるほどの強い感情を覚える。

自分が何か役に立ったかのような気持ち。

それの気持ちは利他に接した時の感覚なんだろう。

誰か見ず知らずの困っている人を助けたい気持ち。

それは相手の未知性によるものなんだと思う。

@t_shinooka
I'm knockin' on your door.