【思】実業と哲学

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テックとかビジネスの領域でこそ、哲学的な問いがなされるべきだと思う。

 

例えば自動車の自動運転が社会実装されようとする時には、システムを設計するエンジニアはトロッコ問題に対する解を示さなければならない。

自動運転中に目の前に歩行者が急に飛び出してくるとする。

そのまま走行を続けると確実に歩行者を死亡させてしまう。

そこで歩行者との衝突を回避する方法を瞬時に計算する。しかし後ろからはダンプカーが迫っていて急ブレーキをかけると追突されるし、左右にハンドルを切っても壁に衝突してどちらにしても搭乗者が命を落としてしまうことが計算されてしまう。

目の前にある歩行者を犠牲にすれば搭乗者の命は助かる場合、自動運転車はどのような挙動をするべきか。

歩行者を犠牲にしてユーザーである搭乗者の命を優先するか、それとも搭乗者を犠牲にするのか。

そしてこのような状況のとき、どのような挙動をするかあらかじめプログラムに組み込まれていなければならない。

そこには全ての命は等価値なのかという倫理の問題を孕んでいる。

 

また、自動運転で事故を起こした場合、その責任は誰が負うのか。

通常であれば、過失であっても故意であっても、ハンドルを握って運転していた時に事故およびそれに伴う損害を発生させた事実に対して刑事上や民事上の責任が発生し、そのことについては違和感を覚えることはないと思うのだが、自動運転中の事故に対して搭乗者がその責任を負うとしたら、それは「人に自由意思がないとしたら、社会的責任や刑罰を与えることは正しいのか」という問いとリンクし得る。

現在の法体系は、人には自由意思があるという前提の下、罪を犯そうとする衝動を自らの自由意思によって抑制することもできたのにそれを自由意思によって行使しなかったという事実に対しての責任を問い、責任が認められた場合に相応のペナルティが課せられるのだが、自由意思がなく自らの意思によって行動が動機づけられていないとしたら、この法体系は根底から崩れ、自由意思がないことにより全ての責任は免責されなければならなくなる。

そしてまさに自動運転中は、搭乗者の意思はまったく介入せず、走行中の操作に対して自由意思は働かないことになる。

このことは、「責任とは何か」「人を罰することはどういうことか」という哲学的な問いとも関連する。

 

これが最後の例になるが、「DE&I」とかグリーンビジネスとか、「他者」に配慮するビジネスを行うことが、いわばトレンドとなっているが、ここでも「他者とは何か」、「善とは何か」という問いに対して、絶対的な答えを出さないまでも、その問いに応えようとする姿勢や、その組織なりのスタンスの思惟は少なくともなければ、何ら本質的な解決には至らないポーズだけのものになるだろう。

 

「哲学は社会の役に立つか」ということが話題になることがあるが、私は必ずしも役に立つとは言えない、というスタンスをとりたい。

しかし、「役に立つこと」と「必要であること」とは別だと思っている。

哲学は、「役には立たないかもしれないが、必要である」と思っている。

役に立つとか立たないとかそういう功利性の価値基準とは別の場所にあるのが哲学だと思う。

「役に立つ」とか「利益を産む」とか「効率性、生産性」とか、そういうビジネス的な文脈だけで物事を語ろうとすると哲学は不用なんだろうが、これからのビジネスは旧来の「儲かればそれでいい」というスタンスを捨て、「何が正しいのか」を問い続けなければならない領域に移行しつつあるんじゃないかと思っている。

@t_shinooka
I'm knockin' on your door.