【書】『生物から見た世界』ユクスキュル

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本書ではユクスキュル独自の「環世界」と言う概念をベースに論が展開される。

環世界は、主体が知覚するもので構成される知覚世界と、主体が作用するもので構成される作用世界が連れ立って一つの完結した全体を作り上げる世界を指す。

つまり環世界とは、生物はその種固有の知覚世界に生きていてその種固有の環境で活動している、という世界観。


<著者の言説>

生物はその種によって時間の速さの感覚も、見える色も形も、匂いも全ての感覚が生物によって異なっており、客観的で絶対的な世界の見方はなく、主体的で相対的な世界が種の数だけ広がっている。

感覚だけでなく意識についても同様で、人間は目的があってそれに則して行動をする(もしくはそのように行動していると自覚している)ため、ほかの動物も同じような生きかたをしていると信じているが、それは思い違いである。

生物における行動の源泉は「目的」ではなく、「設計」という概念でのみ説明できる。 動物にはある目的に向けられた行動というものはまったく見られない、と著者は言う。

 

ただし、生物の行動が「目的」ではなく「設計」によって引き起こされるのであっても、設計があるからこそ、秩序だった行動が可能になる、とも言える。

 

一つの木があっても、木こりにとってはそれは材木になるし、子供にとっては表面の樹皮が魔物の顔に見えて畏怖の存在になるかもしれない。

また、キツネやフクロウにとってはそれは棲家ともなるが、キツネは地上で暮らすので、その木の枝はキツネの環世界の外にある。同様にフクロウにとっては木の根はなんの価値も持たない。

さらに、アリにとっては山や谷が連なる単なる地面であり、「木」という全体はアリの環世界には存在しない。 このように、同じ木であっても、生物の種によってそのありようは極めて変化に富む。

同じ部分がある時には大きく、またある時には小さい。

ある時は堅く、ある時は柔らかい。 ある時には保護に役立ち、ある時には攻撃に役立つ。

よって、その木の客体としての本質は言い表すことはできない。

 

個体の数だけものの見方があり環世界があるが、その世界全ての背後には、永遠に認識されない”自然”という主体が隠されている。

 


「共感」と言う観点で、「他者の視点に立つことが共感の源泉になるのなら、果たして他者と同じ視点に立つことは可能なのか」という問いの糸口になることを期待して本書を選んだのだが、どうやら種が異なると、認知の仕方が異なるらしく、全く同じ立場に立つことはできないらしい。

アメリカの動物園でゴリラの檻に転落した子供をビンティというゴリラが助けた、と言うエピソードがあり、時に動物にも共感性や利他性があると言う文脈で語られるのだが、果たしてビンティは少年の気持ちを汲んでそういう動作に及んだのかは分からない。


『生物から見た世界』は人間以外の生物を対象にしたが、人間同士の認知の違いについてはカントが『純粋理性批判』で説明しているとのことなので、今後は『純粋理性批判』についての本を読むことになりそう。

(ただし原著は難解すぎるようなので、入門書や解説書までに留めたい)

@t_shinooka
I'm knockin' on your door.