定期的に参加している読書会がある。
その課題図書を選定する番が回ってきて、遠藤周作の『沈黙』を課題図書として挙げたので、この本を読んで感じたことの一部をまとめてみたい。
<あらすじ>
時代は西暦1600年代中頃。
ポルトガル人祭司フェレイラ師がキリスト教布教のために訪れた日本で棄教したという知らせが本国に届く。
日本への布教活動を行うと同時に、フェレイラ師の棄教の真偽を確かめることになる司祭のロドリゴ。
日本では厳しい弾圧が行われ、カクレキリシタンが拷問され無惨に殺される場面を見聞きする。
そしてロドリゴ自身も捕えられ、穴吊りという厳しい拷問に苦しむ信徒の呻き声を目の当たりにし、ついにロドリゴは棄教する。
棄教した後もキリスト教の儀式を求めてキリストの信仰に縋る者が彼の元にやってくる。
ロドリゴはかつて司祭だった時と同じように、彼のために祈りを捧げる。
この物語の主題は「信仰とは何か」という問いであると言って間違いないだろう。
少なくとも私は、著者から「信じるとは何か」という問いを突きつけられているような気がしながら読み進めていった。
「神はなぜ沈黙を貫くのか」
この問いは、物語の大半に渡って、主人公である司祭のロドリゴから投げかけられる。
弾圧を受け拷問に苦しみながら死んでいくキリシタン。
その状況に神は何も応えない。
神の沈黙、つまり「神は全知全能であるはずなのに、なぜこの世は悪や苦しみに満ちているのか」という疑問は、『沈黙』という作品のみで殊更取り上げられているテーマではない。
神学者を中心に、これまで多くの学者が取り上げてきた問いであり、何よりも十字架に架けられているイエス自身が投げかけた問いでもある。
「主よ、主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書 27章 46節)
この疑問に対する回答として、私が見聞きした2つの説を紹介したい。
1つ目は、神は全知全能で人間も完全な善を遂行できるように創造したが、人間の善悪の判断が未熟であるため世界には悪がある、という考え。
2つ目は、人間ごとき小さな者には、この世界が悪い世界かのように映るかもしれないが、神のもつ大局的な視座に立った時、今の状況がベストなのだという考え方。
どちらも取ってつけたような考え方で、この問題が込み入った難問であることを物語っているような気がする。
『沈黙』に話を戻すと、この物語の中において終始神は沈黙していたわけではない。
ロドリゴが棄教し、それでも彼の元にやってくる者に告解を行う際に、確かに彼はイエスと対話する。
イエスは、自信を裏切ってユダヤ人に銀30枚で売ったユダに「去れ、行きて汝のなすことをなせ」と言う。
ロドリゴはこの時のイエスの言葉を、裏切り者であるユダを見捨てて排除しようとした言葉だと捉えていた。
つまり、「お前のことはもう知らないから好きにしろ」と言っているのだと。
しかし棄教しイエスと対話することで、この時の言葉の真意を悟る。
イエスは決してユダを見捨ててはいなかった。
「去れ、行きて汝のなすことをなせ」と言う言葉は「お前が何をやってもそれを私は全て受け入れてやる」と言う愛に満ちた言葉だった。
そしてこの言葉はユダだけでなく、踏み絵を踏んだロドリゴも救う。
棄教してもなお、ロドリゴは「なすことをなせ」というイエスの言葉を信仰する。
棄教し儀式もできないが、「なすことをなせ」というイエスの言葉にこたえている。
信仰とは、信じていたものが信じられなくなってもなお残っている、残滓のようなものなのかもしれない。