共感をテーマにした本だと思って手にしたが、共感とは何かという議論というよりかは、(「思いやり」とも言い換えられるような)共感の重要さを説明しているような印象。
シェアとかコモンズとかコミュニティとか多様性とかそういう類の話で、『人新世の資本論(斎藤 幸平 著)』とか、『ビジネスの未来(山口 周 著)』などのような、ポスト資本主義についての主張のような感じ。
「虚構を信じることによって人類は発展したが、その虚構によって環境の破壊や戦争が起きていている」という著者の指摘は『サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ 著)』をベースにしているが、著者によるそれ以上の議論の発展は見られなかった。
文体についても、「だろう」とか「思う」とか推量の表現に終始していて、研究に則した学問的なアプローチではなく、エッセイのような文章。
著者について調べてみると、ゴリラの研究が専門のようで、こういった分野は専門外なんだろう。
共感についての本質的な部分についての言及が不足しているのと、推量や推測が多用される文体、そして既に私が他の本で見聞きしていた内容に準拠する展開は、私が期待していた内容ではなかった。
ただその中でも、『生物から見た世界(ユクスキュル 著)』や東洋的なものの見方をベースにした「あいだ」の理論についての文章(第六章「棲み分け」と多様性)は、私に新しい視点をもたらした文章だった。
この視点は『生物から見た世界』への興味を強くさせると同時に、その世界観に共通点があるような気がして、アイヌへの興味を強くさせる。
その視点の内容を簡単に整理したい。
生物と環境は不可分であるという「世界」観:「あいだ」の理論、「生物と環境は一体であって、 それぞれに影響を与え合う」
ドイツの生物学者で哲学者でもあるヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、『生物から見た世界』の中で、それぞれの動物はその種に備わった能力を用いてそれぞれ別々の「環世界」を認知しながら暮らしていると指摘する。
つまり、あらゆる生物は住んでいる環境と切り離せない関係にあり、それぞれの種はその環境を担っている。
これは、環境とは生物にとって一方的に影響を与えるもので、それぞれの種の個体が環境に適応することによって淘汰が機能すると考えたダーウィンの考えとは異なる。
ユクスキュルの世界観によると、主体と環境との双方向の働きかけが同時に起こるので、主体と環境を厳密に分けることができない。
そこにはAでもないがBでもない、「あいだ」の理論が成り立つ。
「テトラレンマ」というインドを由来にする思考様式がある。
「これはAである。」
「 これはAではない。」
「 これはAであり、且つ、非Aでもある。」
「 これはAでもなく、非Aでもない」
という4つの句からなる。
二つの対立する考え方の間で身動きが取れなくなることをジレンマというが、これはレンマが二つあることを意味する。
ジレンマは 「AはAである」、「A は非Aではない」という二元論であり二者択一しかない。
しかしテトラレンマには四つのレンマがある。
ジレンマに加え「Aと非Aのどちらでもない、どちらでもある」というもう2つレンマ(容中律)があることで、思考の幅が大きく広がる。
テトラレンマは、「ある」か「ない」かの二項対立で思考する西洋的思考とは異なる思考を提示し、まさに「あいだ」の理論であるといえる。
日本の自然観には「見立て」や 「あいだ」の概念が織り込まれている。
里山は、山でも里でもないし、山でも里でもあると言え、そしてハレ(聖)とケ(日常)のあいだにある場所でもある。
能でこの世とあの世の世界が演じられるのも、人形浄瑠璃で人情劇が繰り広げられるのも、 「あいだ」 をつなぐ「見立て」がなければ成立しない。
歌舞伎も宝塚も「あいだ」を「見立て」ることによって成立する世界であり、そこには女でも男でもない(もしくは「女でも男でもある」) 世界を容認する容中律の原理が働いている。
「あいだ」と 「見立て」の考えには、「存在とは常に移りゆくもの」という輪廻転生の思想が基本としてある。
そして、死者も生者も、生物も非生物もあらゆるものがつながっていると の思想が底流としてあるので、 主観、 客観という二元論には陥らない。
三途の川はこの世とあの世を分ける境界として見立てられるが、川は線ではなく領域として幅がある。
神社でも、鳥居から本殿までには一定の距離があり、参拝するものはその間を通ることで心身を清める。
西洋的な文化や概念が日本でも幅を利かせ、「Aと非Aのどちらでもない、どちらでもある」という概念が追いやられ、「Aである、Aではない」という思考に収束していくことが、今の行き詰まり感を生み出しているのではないだろうか。
この本の要約
言葉が生み出される前は、人類は歌や踊りなど音楽的手段でコミュニケーションをとっていたと考えられる。
二足歩行によって発声の仕組みが変わり両手が使えることによって、歌と踊りのコミュニケーションは発展し、今のような言葉とジェスチャーを巧みに操るコミュニケーションになっていった。
言葉によって抽象的で複雑な概念も他者と共有することができるようになった。
これにより架空の概念、虚構も信じられるようになった。
虚構と言っても悪い意味だけではない。
虚構が信じられるようになるまでは、全て自らによって確かめなければ実体として認知できなかった。
それでは集団で生活するのには不都合が生じる。
仲間が遠くに出かけたのは、自分たちの食糧をとってきてくれているからだという期待や、採集に向かう自分に仲間たちの帰りを仲間たちが待ってくれているはずという期待。
そういった目に見えないものを信じられることによって集団としての結束がより固くなっていく。
言葉を操り虚構を信じることができたホモ・サピエンスは、そうでなかったネアンデルタール人を駆逐し世界に君臨することになる。
狩猟採集時代は定住せず現代でいうコモンズの概念が浸透していたため集団間の争いは生まれにくかった。
しかし農耕牧畜のシステムになり状況は変わった。
土地は全て同じではなく、農耕や牧畜に適した土地とそうでない土地があることから、土地に価値が生まれるようになった。
そして土地の価値の違いによって領土という概念が生まれる。
やがて技術が発展して食料の蓄積が可能になると人口が増える。
そうなると居住する場所を確保するために、 領土拡張の必要に迫られ、集団での武力が必要となり首長制が取り入れられるようになり君主制の国家になる。
このように農耕牧畜のシステムは格差と争いを生むことになった。
人々は言葉を獲得し、言葉によって虚構を生み出し、より豊かな未来を虚構によって描きながら進んできた。
しかし虚構と科学技術とが手を組んだことで、地球環境の破壊へと進んでしまった。
だから私たちは一度過去に戻り、これまでとは違う別の虚構をもう一度つくり直し、未来を変えなくてはいけないところまできている。
そのベースになるのが、かつての狩猟採集の時代の価値観である。
所有ではなく共有、定住ではなく遊動、そういう価値観が広まれば、共感性(思いやりとも言い換えられる共感)が育まれ、より豊かな社会になるだろう。