
COTEN RADIO(コテンラジオ)という音声コンテンツが面白くてよく聞くのだが、ゴッホの生涯をテーマにしたシリーズがとても感慨深く良かった。
https://open.spotify.com/episode/6XYun99ujQhqGnAJbyzplN
<COTEN RADIOとは>
歴史を愛し、歴史を知りすぎてしまった歴史GEEK2人と圧倒的歴史弱者がお届けする歴史インターネットラジオ。学校の授業では中々学べない国内外の歴史の面白さを学び、「人間とは何か」「現代人の抱える悩み」「世の中の流れ」を痛快に読み解いていく!?笑いあり、涙ありの新感覚・歴史キュレーションプログラム!
(COTEN RADIO ホームページより引用)
まずはCOTEN RADIO内で語られたゴッホの生涯を整理する。
ゴッホの生涯
家族構成
ファン・ゴッホ家は宗教と芸術の領域で出世してきた名家で、祖父は高名な牧師で、一族の誇りだった。
ゴッホの父、テオドルス・ファン・ゴッホも牧師だった。
ゴッホの祖父に比べて高名でも裕福でもなかったが、収入の割合に比べてかなり高い金額を子供たちの教育に充てた。
生育環境
宗教の家系で育ってきたので、文化教養が身近にあった。
牧師という職業は当時のオランダでは文化の担い手だった。
教会に閉じこもって宗教活動だけをやっていたわけではなく、美術や音楽や文学、社会問題などに対して発信するような、オピニオンリーダーみたいな役割を持っていた。
牧師という、社会の中で尊敬されている家に生まれ、小さい時からキリスト教を叩き込まれているので、ゴッホの行動原理や思考の根幹には、キリスト教が基本的に根強くインストールされている。
幼少期
少年時代から扱いにくい子だった。
感情が激しく、常に喧嘩っ早く、何事にも極端に思い詰める部分があった。
一方で「ゴッホの態度や振る舞いには何度も笑わされた」「彼がすること、考えること、感じること、何もかもが面白い」「ゴッホが笑う時に心の底から楽しげに笑う顔は、全体から輝いて見えた」と友人たちは言い、そしてとても親切で共感力が高く、人を惹きつけていた。
そんな兄を弟テオは、素直に尊敬していた。
喧嘩したりもするが、ゴッホは森や野山を歩き回り、自然の美しさや神秘を弟のテオに話す。
屋根裏部屋でいろんなことを夜遅くまで兄から教わったというテオの思い出がある。
16歳で画廊に就職
ゴッホは16歳の時に、叔父が経営していた絵を取り扱うグーピル商会に就職する。
下宿しながら働き、職業柄多くの美術作品に触れる機会や画家との交流があるので、その時からゴッホは少しずつ絵を描いていたが、この時は画家になりたいとは全く思っていない。
彼の後を追って弟テオもその後グーピル商会に就職する。
ゴッホは数年勤めて解雇される。
ゴッホはロンドンで勤務していた時に、失恋したことをきっかけに聖書の研究に没頭するようになる。
没頭するあまり仕事に手がつけられなくなって解雇される。
一方、弟のテオは出世し、芸術の都であるパリ店の支店長を任されるようになる。
聖職者の道を目指す
グーピル商会を解雇されたゴッホは父や祖父と同じように牧師を目指す。
牧師になるために大学の神学部入学に向けて受験勉強をするが挫折する。
彼は宗教的な情熱はあるが、キリスト教の教義には興味が持てなかった。
むしろ「こんな勉強で人を救えるのか」という嫌悪感を持っていた。
一方で勉強に身が入らない自分がまた嫌で、ゴッホは自分を罰する。
やるべき勉強ができないとベッドで寝てはいけないという、脅迫観念に囚われ、棒で自分の背中をたたいたり、冬でも部屋の外で寝たりするが、神学部入学は叶わなかった。
しかしどうしてもキリスト教に関わりたいので、今度は伝道師の学校に入る。
伝道師は牧師の見習いみたいな立場で、儀式はできないが人に説教はできる役職。
ゴッホはベルギーの炭鉱地帯という貧しい地域に派遣されるが一生懸命務める。
炭鉱労働者と一緒に生活をして、キリスト教の教えを説いたり、貧しい人たちの世話をしたり、病人や怪我人のお見舞いや看病をしたりする。
しかしその献身性がやや常軌を逸し、貧しい人たちの生活を知り、イエスと同じ生活を実践するため、自分が持っている所持品や服を全部貧しい人たちに渡したり、ベッドで寝ることもやめ、1日何時間も全力で説教に取り組んだ。
その姿を見て教会の指導者たちは異様に感じクビにされる。
そんな姿を見て両親はゴッホを精神病院に入れようとする。
精神病院に入れるということは当時の価値観の中においては家族からの排除と同義だった。
精神病院に入れようとする両親に、ゴッホはものすごく悲しみ、両親からもキリスト教社会からも社会からも排除され居場所がどこにもないという絶望をもたらした。
父の属する古いキリスト教の代表でもある教会の代わりに、自分の宗教的な情熱を受け入れてくれる何かを他に探す必要があった。
自分の精神を救ってくれる術を探したいという、切羽詰まった活動が、彼の生存理由の根底にあった。
そして彼は芸術の世界に飛び込んでいく。
芸術の世界へ
ゴッホが芸術の世界に進むのは単に絵が好きだからではない。
とても切羽詰まって止むに止まれぬ気持ち、それに縋る気持ちだった。
また、テオの後押しも彼を芸術の世界へ誘った。
画家の修行を始めて、実家を一回飛び出してオランダのハーグに行く。
ゴッホの芸術家としての活動も生活費は全て弟のテオの仕送りで賄われていた。
ゴッホに対する潜在的イメージとして、感性と勢いに任せて精神を狂わせながら制作するイメージがあるが、実際は体系的な方法で絵のスキルアップに取り組んだ努力家だった。
レンブラントやドラクロア、ミレーといった巨匠を参考に、デッサンという基礎訓練をしつこいくらいにずっと繰り返していた。
絵を描くだけではなく、自己流ながらも最新の色彩の理論や、遠近法の技術、人体解剖学の本を読んで独学する。
パリへ
あちこちの都市を点々としながら猛烈な勢いで絵を描いていったが、テオのいるパリに行く。
パリでのテオとの共同生活が、その後の作品の明るい色彩や独特の筆のタッチに影響を与える。
パリは芸術の中心地だけあって、様々な新しい試みと、伝統的な権威が混ざり合い大渦巻いているような状態だった。
そんな中、「印象派」と「浮世絵」の2つに特に大きな影響を受け、ゴッホの爆発的な変化の要因になった。
ただ、ゴッホは別に印象派の画家になって絵を完全に印象派に寄せたわけではなく、その考え方や技法を作品に取り込みながら、オリジナリティを練り上げていった。
また、アカデミーの権威から離れようとしていた印象派の人たちにとって、浮世絵の自由さは大きなインスピレーションを与えた。
ゴッホ兄弟も浮世絵を大量に買い、模写するなどして研究した。
テオとの同棲を解消、パリを離れる
ゴッホとテオはパリで2年間同棲したが互いに限界を迎えていた。
2人は互いに尊敬しあっていたが、ゴッホの性格は他者との共同生活を困難にした。
新たな場所で一からやり直したいと思った彼の行き先は南フランスだった。
彼は明るい色彩の魅力に取りつかれ、明るい太陽に憧れた。
明るい太陽がある場所でのびのびと自分の理想とする絵を描きたいという風に思った。
彼の中では芸術は自分を救う術を探す旅でもあるので、一時の気の迷いではなく切実なものだった。
そしてアルルという南フランスの自然豊かな町に移住する。
パリを離れる出発の日、テオは駅まで兄を見送りに行った。
そのあとテオがそれまで兄と同居していたアパートに1人で帰って玄関の扉を押し開けると、そこにはゴッホが描いた色鮮やかな絵が何十枚と並んでいた。
ゴッホは立ち去る数時間前に、置き土産として並べていた。
それはテオに対する感謝の表れだった。
アルルへ
アルルに着いたときはまだ2月だったが、アルルでの春の到来にゴッホはとても興奮する。
自然が豊かな太陽の光に照らされ生命に満ち溢れていた。
「なんて素晴らしい世界なんだ」とゴッホは深く感動した。
そしてアルルの地で、誰も真似することのできない強烈な色彩と独特なタッチを確立していく。

フィンセント・ファン・ゴッホ《種をまく人》1888年
「種を蒔く人」は尊敬するミレーの絵を模写した絵で、とても明るい色彩になっている。
また、人物ではなくて太陽が中心にある。
太陽が主役のモチーフとして描かれていると考えられ、太陽は神とイエスを象徴している。
自分を否定した父親の古いキリスト教に倣って神とイエスを直接描くのではなく、彼の中の自然崇拝思想と信仰心が結びついて、宗教心はあるが自然を崇拝するという考えを見出した。
そのため、神やイエスや教会を太陽など自然に置き換えていくという表現を彼は重視していく。
(ゴッホの、太陽をキリストと見立てた自然信仰は、スピノザの「神=自然」という考え方に共通するように思える)
ゴッはアルルの地元の人たちとも顔見知りになって仲良くなる。
お気に入りのカフェに通って、友達を作ったりモデルになってもらったり、他の国から来た画家と一緒に出かけて絵を描く生活。
アルルでの生活はゴッホの短い生涯においても1番安定した幸せな時期だった。
<黄色い家>
それまで借りていたホテルの一室からテオの経済的な支援もあって引っ越し、新しく部屋を借り、アトリエ兼住居として使うようになる。
このとき借りた建物が「黄色い家」と呼ばれている。
この新居を拠点にゴッホは心の中で温めてきた夢を実現させようとする。
それは画家たちがここに集まって共同体として支え合いながら絵を描くための拠点を作るということだった。
ゴッホは画家たちのユートピアを作るという夢を温めていた。
牧師の世界を挫折しキリスト教世界からの拒絶を感じていたゴッホは、それに代わる新しい共同体の構築を構想し、それは芸術家たちによって作られるものだった。
また、ゴッホは黄色い家を通じてアルルで自然主義を体現しようとした。
産業革命により近代化や工業化が進み、その中でキリスト教の権威も失われつつあった。
そういう状況の中で、これまでの教会が支配してきた体系的で教義的なキリスト教に代わる、自然を神の御業として崇拝し信仰することを目指した。
その過程でゴッホは、日本人を理想像とする。
「日本人はまるで自分自身が花であるかのように自然の中で生きている人たちだ」「日本の芸術家たちはお互い愛し合って助け合っている」「まさに兄弟同士のような生活の中で暮らしている」「陰謀の中で生きているわけではない。我々は彼らを見習うべきだ」
そして彼の中で日本人は、自然を崇拝する僧侶というイメージを持つようになる。
この像は、まさに彼が作ろうとしている芸術家による宗教的な共同体とマッチする。
ゴーガンとの接近
共同体を作りユートピアを建設するために画家の仲間を呼ぼうと思い、画家仲間に手紙を出して一緒にやろうと誘うが全然人が集まらない。
その中で最終的に1人だけゴッホの呼びかけに応じる。
それがポール・ゴーガンだった。
ゴーガンもゴッホ同様に絵が売れず貧しく、ゴッホを含む絵画仲間に自分の窮状を訴えて、助けを乞うていたところだった。
それにゴッホはすぐ反応し、一緒に共同生活すれば生活コストが下がり、南フランスは光や自然が綺麗だから一緒に住もうと提案する。
しかもゴッホはゴーガンに先輩画家として敬意を抱いていた。
ゴーガンが来てくれれば、この共同体の中心的な人物になってほしいとも思っていた。
一方ゴーガンはゴッホの理念に共感した訳でもなく、テオからアルルに来れば資金援助するという条件を提示されて説得されてアルルに来た。
ゴーガンはアルルに来てテオからの援助を受けながら少しばかりの収入を確保して、仕事が軌道に乗ったらアルルは去るつもりだった。
そんなゴーガンの真意を知らないゴッホは、芸術家たちが共同生活を送るユートピアを作るという自分の願いと、ゴーガンを助けることができるという願いが両方叶うと思い、とても喜んだ。
この時に、ゴッホは「ゴーガンさんが来てくれるから、喜んでもらえるようにひまわりを描こう」と思い、ひまわりのシリーズが誕生する。

ゴーガンは以前展覧会でゴッホのひまわりの絵を気に入って、ゴッホのひまわりの絵と自分の絵を交換したことがあった。
そのためゴッホにとっては、自分が描いた絵を気に入ってくれた、ひまわり好きの先輩という認識だった。
ゴーガンさんが好きなひまわりをたくさん描いて、ゴーガンさんが泊まる部屋に飾ったら絶対喜んでくれるという、純粋な動機で喜ばせたくてひまわりを描いていった。
また、ひまわりは信仰心と愛の象徴で、それをゴーガンが泊まる部屋に飾るということは、ゴーガンに対する敬意と愛情の表現でもあった。
耳を切る、ゴーギャンと離別、黄色い家コンセプト崩壊
ゴーガンはアルルに来てゴッホと共同生活を始めたが、2ヶ月で関係は崩壊する。
ここでもゴッホの共同生活の難しさが露呈してしまう。
共に生活するのには厳しい状態の中、ゴーガンはパリに帰ろうとする。
するとゴッホは裏切られたと感じ、取り乱してゴーガンを「殺人犯」呼ばわりしたり、剃刀を持ってゴーガンに迫ったりした。
そんな極度な精神状態に陥ったゴッホは、自分の耳を切り落とす。
その正確な動機は、「個人的な問題」としてゴッホは話していない。
ゴッホは切った耳を新聞紙で包んで、ラシェルという歓楽街で働きながら雑用する女性に持って行って、「これを大事に取っておいてくれ」と言って立ち去った。
この行為の理由を学者は2つの点で説明する。
1つは、ゴーガンからアルルから出たいという意思表示をしたことにショックを受け、自分は結局救われない、どこにも居場所がないという絶望に囚われていたこと。
そしてもう1つはテオから結婚の知らせが来たこと。
テオが結婚することによって、自分はこれ以上テオに頼ることができなくなるのではないか、絵が描けなくなるのではないかという不安が爆発したと考えられる。
耳を切った翌朝、ゴッホは自宅で瀕死の状態でいるところを警察に発見される。
当初は遺体だと思われていたので、ゴーガンが散歩に出かけ黄色い家に戻ったところ、すごい人が集まってて入って行ったら、ゴーガンは殺人容疑で逮捕される。
ゴッホは病院に送られた。
ゴーガンはすぐにアルルを去って、2度と戻って来なかった。
それでもゴッホはゴーガンをまだ親友という風に考えていて、ゴッホがテオに対して「僕が手紙を欲しがっていたことをゴーギャンに伝えてくれ」と手紙を出す。
入院
耳を切ったゴッホは、アルルの市立病院に入れられ、監禁室に閉じ込められる。
金属製のベッドに縛りつけられたまま放置され、光はベッド側の壁の上の方にある小さな鉄格子の窓から差し込むだけという、まるで牢獄のようなところで監禁される。
症状もこれ以降、悪化の一途を辿る。
錯乱、思考回路の喪失、過剰な興奮、幻覚、幻聴、毒殺された妄想、不安発作、精神疲労といった発作が繰り返し襲う。
ただ、発作はずっと起きているわけではなく、正気でいられる時間もあり、正気でいられる時に彼は作品を描く。
発作が収まっている時はむしろ冴えわたり、しかも本人も仕事をしたいという欲求がすごくあった。
なぜ絵を描きたかったのかというと、クリエイティビティが爆発したというよりは、社会との接点が欲しかったからだと思われる。
彼は自身の状態と闘うために描いていた。
よく「狂気の画家」や「情熱の画家」と言われることが多いゴッホだが、狂いながら描いたわけではない。
むしろ狂気は彼にとってネガティブな要素で、苦しみの根源であり、取り除きたいものだった。
狂気に苛まれていないタイミングで何とか自分が生きるために、自分が救われるために、絵を諦めずに描き続けた。
彼は普通の生活に戻ろうと必死で努力をした。
しかし病状は良くならない。
ある日お手伝いさんが洗濯物を干す作業をしていたら、突然ゴッホが階段から降りてきて、何も言わずに洗濯紐を引っ張って洗濯物を全部床に落としてしまう。
それでも何も言わないのでお手伝いさんが怖くなって少し後ずさると近づいてくる。
そこでゴッホが言った言葉が「他の人の耳を切り落とさなくてよかった」
この状態をパリにいるテオも把握していて、見舞いに来たり、入院の手配をしたりしている。
その葛藤や苦しみを見ているとかわいそうで、テオはやはり兄を愛していた。
絶望:アルルを去る
ゴッホは、自分を否定した父親から見た古いキリスト教から逃げ出して、その代替物を探していた。
それを芸術や自然の中に見出そうとして、教会に変わる疑似宗教的な共同体をアルルの黄色い家で作ろうとしていた。
そしてそれが失敗してしまった。
自分がこれほど崇拝して、救われたいと希望をかけていた、神のような自然なのに、自分がそこから救いが得られなかった。
その葛藤と落胆から来るストレスが極限に達した。
自分には結局居場所がないという絶望が突きつけられた。
そして彼は、芸術家たちの共同体を作りユートピアを建設するという夢を捨てる。
テオに対する手紙に「あんな事件を起こした後、画家仲間をここに呼び寄せようとは思わない。僕みたいに頭がおかしくなる恐れがあるから、もう2度とやらない」と書いた。
彼は自分が正気ではないことを自覚していた。
ゴッホは居づらくなってアルルを去る。
彼が夢を投影した黄色い家は、今や住民の格好の見せ物だった。
また、ゴッホの隔離を要求する嘆願書が市民から市長に提出される。
これにゴッホがすごく悲しみ、自分が初めて自分の家を持って、自由に創作できると感じたこのアルルという土地が、自分を拒絶しようとしているという悲しみに彼は打ちひしがれる。
サン・レミ
ゴッホは、アルルを自分の意思で去り、自分の意思でサン・レミというアルルから近い街の療養院に移る。
しかしサン・レミでも病気は良くならない。
幻覚や幻聴を見聞きしたり、絵の具のチューブを食べようとして意識を失って口から泡を吹いて倒れるなどする。
ただし、発作の合間の作品への情熱は決して落ちず、それどころかさらに迫力を増していった。
彼を天才たらしめているのは、絵のスキルではなく、生きづらさに耐えながら極限まで追い詰められながら、残された絵という道に全てを注ぎ込むだけの、極限的な生命力と努力にある。
ゴッホが手紙の中で「僕は全精力を傾けて自分の仕事に没頭しようと格闘している。それがうまくいけば、それこそ病気に対する抵抗になるのだ」と自分に言い聞かせている。
彼は狂いながら描いてるわけではない。
狂気にあらがって自分で気を持たせて描き続けている。
むしろ狂気に陥らないように描き続けた。
この辛い時代に、ゴッホにとってラッキーだったのは、自分が描き続けた絵を送り見てくれるテオがいたことだった。
テオに息子が生まれ、息子にテオはフィンセント・ウィレムという兄ゴッホと同じ名前をつける。
ゴッホはテオの息子の誕生を心から祝福し、《花咲くアーモンドの木の枝》は子が生まれたのを祝って制作された。
テオは兄に手紙でこの誕生を知らせ、名前をフィンセントにしようと思っていることを伝えた。ゴッホは折り返し「今日、吉報を受け取って、言葉で表せないほど嬉しい」という手紙を送っている。
また、この時、ゴッホの作品は評価され始めていた。
基本的にゴッホの作品は評価されず、テオは兄の作品に対する「狂人の作品だ」とか「病んだ精神の産物だ」といった陰口や悪口を聞かされていた。
しかしそんな中、テオ以外にも評価する人が出てくる。
ゴッホの作品を「不思議な魅力に満ちた、緊張感に富んだ情熱的な作品」という風に褒めてくれる批評家も出てきたりする。
しかしゴッホは、自分が評価されていることを喜ばなかった。
ネガティブな考え方に囚われてしまうメンタル状態で、「自分の絵は一文の価値もない」「単なる苦悩の叫びでしかない」と考えた。
評論家が好意的な記事を書いてくれるのに対して、ゴッホはテオに「もう自分の絵についてもこれ以上記事にしないでほしいと評論家に頼んで欲しい」と言う。
「批評家は自分のことを誤解してるし、もう世間の注目にも耐えられない。自分の絵の噂を耳にするとすごく苦しい」とテオに伝えている。
オーヴェル=シュル=オワーズ
症状が良くならないので、テオの勧めもあってゴッホは南フランスを後にし、パリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ村に移り住む。
ここのラヴー・ホテルという小さな宿の3階の屋根裏部屋を借りて、最後の2ヶ月を過ごす。
パリへ
ゴッホが亡くなる3週間前に、ゴッホはパリに行って弟のテオの家に3泊ぐらい泊まる。
ゴッホが訪問した時にテオの家の中の雰囲気があまり良くなかった。
幼い息子が重い病気を患っていて、テオと妻のヨーは看病で疲れていた。
そこにゴッホが泊まりに来た。
その時に、自分が送った絵をかけている場所が気に入らないからもっといい場所に飾れと文句を言う。
それに対してヨーは義理の兄に対してイラついて口論になった。
ヨーはゴッホのことを憎んでいたわけではなかった。
結婚する時に夫には支えるべき兄がいて、生きづらさを抱えていることも含めてテオと結婚した。
しかし夫の収入の多くを持っていかれていて、しかも厄介な精神の疾患も抱えている。
自分の息子の看病もしないといけないしゴッホの世話もしないといけない。
そして挙句の果てに絵のかけ方が悪いと言われて我慢の限度を超えた。
最期
そしてパリのテオの家庭を訪問した後のゴッホはメンタル的にダウンする。
自分の存在はテオの家庭の重荷になってることを改めて確信した。
ゴッホは自分の甥をとっても可愛がっていた。
自分は生きてる限りこの子にとって邪魔者になってしまうと思い詰めていた。
このテオの家庭訪問の後にゴッホは自殺する。
即死ではなく自力で宿まで帰って医者の治療を受けるが助かる見込みは絶望的だった。
翌日パリからテオが駆けつける。
テオは生きてるうちに兄に会えた。
そしてテオに看取られながら、ゴッホは息を引き取る。
37歳で亡くなったゴッホは、最後までパイプを手に、小さな煙草を吸いながら、「自分は意図的にこのような行為に及んだのであり、その時の自分は完全に正気だった」と語った。
最後の言葉は「こんな風に死にたかった」と。
評価の兆しがあって、せめてあと5年生き延びていれば、画家として自立して、自分の成功を目の当たりにできたかもしれないという状態で亡くなってしまった。
葬儀は彼が最後に過ごしたラヴーホテルで行われた。
彼は自殺者なので、自殺を禁止する教会では葬儀を挙げられなかった。
葬儀の一切はテオが仕切り、パリなどからゴッホの友人が8人やってきて、慎ましい葬儀が行われた。
テオは棺が置かれた部屋に兄の絵を飾り、棺の前の床にはゴッホが使っていたイーゼルと絵筆が置かれていた。
そして棺には彼が好きだったひまわりがたくさん添えられていた。
兄の埋葬で、テオは人目も憚らず泣き崩れていた。
テオ
テオも長く生きられなかった。
元々体が弱かったというのもあるが、メンタル的に来ていた。
ゴッホの葬儀の翌日に、テオは手紙に「どこもかしこもうつろだ。兄がもういないなんて。何を見ても兄が浮かんでしまう」と記していた。
その後、兄のためにテオが頑張って展覧会をやろうとする。
しかし神経衰弱と脳梅毒に侵され、窓から飛び降りようとしたり、家族に暴力を振るおうとしたこともあって、精神病院に入れられる。
ゴッホの死から半年後、後を追うように亡くなった。
ゴッホの人生ははテオとの2人の物語と言える。
ゴッホが画家として活動したのがわずか10年間で、2000くらいの作品を残した。
しかもゴッホが誰にも真似できない強烈な色彩の作品を描いた活動期間は3年にも満たない。
それは一瞬の輝きだった。
それほど短い時間の間に自分の全てを作品の中に注ぎ込んで、静かに自分の命を絶った。
ヨー
ゴッホの死から大体20年ぐらい経って、ゴッホは世界的な画家になったのはなぜか。
ゴッホが亡くなった後、ゴッホの名声を確立すべく奔走した人物が、テオの妻ヨーだった。
彼女がゴッホを世界にプロモーションした。
絶対にゴッホを有名にしてやろうと思っていた。
彼女は自分の日記に「フィンセントの絵を好きになってもらうまで諦めない」と書いている。
その動機はいくつか考えられる。
彼女には、ゴッホの才能を信じる気持ちがあっただろうし、テオの願いを叶えたいという気持ちも強かった。
これだけ2人が頑張っていながら死んでしまったので、もう報われてほしいという気持ちもあった。
また、生計を立てるという目的もあった。
そして、ゴッホに対する深い自責の念があったかもしれない。
ゴッホがパリまで自分たちを訪問してきたあの日のことを、彼女は悔いていたと言われている。
彼女は手紙に「私たちの家に来てもらった時、もっと優しくしてあげればよかった」「ぜひフィンセントに会って、この前会った時あんなにイライラしていたことをどんなに申し訳なく思っているか伝えておきたかった」と書いている。
自分がもう少し寛容であれば、ゴッホはもう少し生きていられたかもしれない。
テオも早く亡くならずに済んだかもしれないという風に考えたんじゃないだろうか。
彼女は手紙と一緒に作品を美術評論家に売り込んでプロモーションした。
前衛的なゴッホの絵はそのままだと理解されづらいので、絵の意味を人々に理解してもらうためには、人間ゴッホの人生の物語を知ってもらう必要があると考えたと言われている。
そのため10年以上の歳月をかけてゴッホの手紙を収集し整理して、書簡全集を発刊した。
ゴッホがやり取りした手紙のうち約900通が現存していて、そのうち弟への手紙は600通以上あり、これを書き起こして本にした。
そしてそれ以来、ゴッホの手紙は世界中で翻訳されている。
ゴッホの手紙がもし全く現存していなければ、ゴッホが何を考えてひまわりや星空を描き、日本についてどういう思いを抱き、どのように病気に抗うように創作活動を続けたのか何も知ることができなかった。
これはテオがいて、テオが毎回手紙を読んで返信を書いていたからで、その意味でもゴッホの物語はテオとの2人の物語と言える。
もう1つヨーがやったことがあり、テオの墓をゴッホの墓の隣に移設した。
テオの墓はオランダにあり、ゴッホの墓はフランスにあった。
自分の夫の遺骨を掘り起こして外国に移してまで、この兄弟を隣り合わせにしたかった。
これで2人は離れ離れでなくなった。
2人の墓は、ゴッホが自殺したとされる麦畑の近くで、肩を並べるように同じ形で立てられている。

いくらゴッホが有名になって作品が高値で取引されても、結局彼本人にとってはどうしようもない。
画家として報いられることが少なかった人生であることに変わりない。
晩年のゴッホが弟のテオに自分の夢を語った手紙があり、それにはこう書かれていた。
「ある日僕はどこかのカフェで個展が開けるようになると思う」
結局彼は個展を開くことはできなかった。
これがゴッホの一生。
思ったこと
ゴッホについて深く知る前までは、絵が全然売れず、貧しすぎて生活が荒れてアルコール中毒と絵の具中毒になってラリって最期自殺したけど、死後評価されたという浅い解像度だったが全然違った。
信仰、同化、異質、期待、孤立、救済
救いたいけどそれを受け入れられないジレンマを抱えていた。
キリストの行いを体現し、自分も人々を救いたいと願う。
これほど敬虔なキリスト教信者なのに、(父親を含む)牧師をはじめとする教会からも否定される。
家族や教会から拒絶され、何も頼る術がなく孤独。
その状況の中で、止むに止まれぬ思いで、唯一社会との接点として打ち込める唯一のことが絵画だった。
それと同時に彼は自身の救済を求める。
彼の信仰心に反して、神はそれに応えず沈黙する。
救済を求めれば求めるほど、信仰心を発揮すればするほど彼の周りが傷つく様は、『沈黙』のロドリゴと同じだとおもった。
ロドリゴは最後、それまでの救済のあり方を棄てることで、自身の救済を得る。
ゴッホの場合はどうだろうか。
最期まで救済を求め絶望しこの世を去る。
しかし彼は求めていた救済を手にしていなかったのか。
そうではない。
テオによる献身的なバックアップによって彼は生活できていたし、ヨウの働きで彼の功績は世界的なものになる。
求めるものを手にしながらそれに気づかず、最後まで社会のつながりを持とうと苦しみ、それでもそれが叶わなくなって絶望する最期。
彼が意思によって意図的に行っていたのではない点に惹きつけられる。
やむにやまれず、どうしようもない力によって彼の人生が動かされる。
それは狂気であったり、救済の渇望だったり、絵への情熱だったり、
彼の絶望に反して、彼の描く花や風景は色彩豊かで明るく力強い。
そしてその絵は彼が亡くなった後評価されその後時代が変わっても人々を勇気づける。
「芸術は現世ではない」村上 隆
彼の描いたひまわりは、決して枯れることなく彼の物語と共に人々に救いと愛を与え続ける。