どうにも何も手につかなくて、やるべきことはあるのだけど暇だと感じてしまっていた。どうしても向き合えない現実に圧倒されるようなプレッシャーを感じているわけではないけれど、幸福感がどこにあるのか模索するように。まるで広大な海の中に急に落とされ、耳の中に入った水が聴覚を奪い、休む間もなく押し寄せる波が呼吸を阻害する。テレビで活躍する芸能人も、前向きな歌を歌うアーティストも同じ人間ならば多かれ少なかれ同じような悩みを抱えているのだろうか。SNSの上では友達の楽しそうな週末を眺め、なんの予定もない自分の過ごし方と比較してしまう。これまでもこれからも、同じような時間を同じように過ごしていくんだと悟ってしまった頃から、自分だけの、豆粒みたいな個性を伸ばせるように、心から好きだと思える「趣味」と呼ばれるアクティビティを探している。それは強迫観念のように、何かをしていなければいけないという、社会と個別的な関わりを持つべきだという通念が脳を占める割合は少なくない。
狭く、暗い部屋で思い詰めてはいけない。ちょうど夕暮れ時でタイミングもいいので散歩に出た。久々にきちんと夕陽を見たいと思い、高い場所を目指して。当てもなく歩き続け、なんとか小高い丘の上に辿り着いた。もうほとんど人も入らないだろう、山頂には小さな祠と簡素な覆屋に石仏地蔵がポツンと祀られている。風化したのか元からなのか、お地蔵様の顔はのっぺらぼうでなんの装飾もなく綺麗な丸い石のようだった。夜目でみると恐ろしそうな見た目に一瞬ギョッとしながら、周囲を眺めてみると立派な景色が現れた。
1月の乾燥した冷たい空気が肌を刺してくるが、丘を登ったためか体温やその景色に興奮して心地よく感じられた。夕陽が照らす街並みは、普段と違う顔を見せる。日がついに隠れると、雲ひとつない真っ青な大空にすこしずつグラデーションが現れる。時が経つにつれて少しずつ夜が忍び寄る。しかし、黄昏時と呼ばれる一瞬の美しさに勝る時間は他にはない。
こんなにも太陽は力強く、空は広い。鳥たちは自由に飛んでいた。車の喧騒や、電車が走る音、遠くにはヘリコプターが近づく音が聞こえていた。眺める景色に大きな変化はなく、そこに平和を見出すこともできる。一人の人間が抱える悩みは大自然を前にしてみればちっぽけなものだ。さらにいえばこの光景を探し出せた達成感や独り占めできた優越感、そして、この感動を味わうことができる心の余裕を持っていることに幸福を感じた。何もできない自分に劣等感を抱くこともあるが、美しいものを心から美しいと言えるその素直な感性を持ち合わせていることに感謝までしている。アクティブに過ごすだけが休日ではない。そんなわかりきった価値観に気づいた時、私は自分が住む街を悠然と眺めていた。