2023年は臆病な年だった。人との関わりを避け、一人部屋に引きこもり変化を恐れ、堕落した日常を当たり前のように享受していた。その中で得たことは家族の大切さや、上手な時間の使い方などありきたりなことではあったけれど、それ以上に長い休息をとれたことは唯一誇れる貴重な体験だった。
今年、2024年は今までとは違ったものになる予感がしている。もとより、そうしたい、そうしなければならないと感じている。それは焦燥感や不安からくるものではなく、使命感や責任感のようなより充実したエネルギーが沸々と湧き上がってくるように、まるで噴火寸前の火山が今か今かとその時を待ち侘びているように、うちなる心から湧き上がる利他の精神が心躍らせる。
周りを見てみれば嫉妬を覚えるようなことばかりだ。映像を作りたかったとか社長になりたいだとか、山小屋で暮らしたいだとか。少々の違いはあれど人生は進んでいく。自分が選んだソフトウェアエンジニアという生き方はそれだけでも希少で代替はできるけれど、その場にいる自分は自分でしかなく大きなシステムの一部となって社会の歯車を支えていく。
なりたくない存在になっていると気がついた時、人は変化することを恐れる。いつからか感じていた不満を生産性へと昇華するため、日々の生活を大切にする。その傍ら、本当にやりたかったことを始めればいい。どんな人間だって最初からやりたいことがわかっている人はいないのだ。Blenderに挫折するとかそういうのは慣れでしかなくて、ただ費やした時間がプロと比べて雲泥の差があるだけだ。
ここで言いたいのは映像作家がかっこいいということだけでなくて、選択した道を正当化するための方法論を解きたいだけだ。クリエィティビティを発揮するような仕事をしたいと言った時、現状でもできることはたくさんあるはずで、その視点を切り替え、抽象的に物事を捉えれられるようになれば何にだっていつからだって成れるような気がする。
もうひとつ、夢で言えばホノルルマラソンを走るという目標があった。どんなに過酷でも、それをやり遂げられるという自信がこれからの人生を末長く鼓舞し続け、勇気づけてくれるだろう。歳だけが積み重なり、体力は衰える一方だ。今を逃すと、次はないという精神で何事にも挑戦していきたい。
好奇心や反骨精神がなくなれば、それはリビングデッドと同じ、生きたゾンビである。人間であるために夢へ立ち向かう。